「怒り」は自分が満たされていないという叫びだ
怒りの核には、必要としているがいまだ満たされていないことがある。p250 「第10章 怒りをじゅうぶんに表現する」より
以前書いた、衝撃を受けた非暴力コミュニケーション(NVC)。
人の言動は、自分の感情を「刺激」することはあっても「原因」になることはない。(中略)人の言動をどう受け止めるかを「選択」した結果や、そのとき必要としていることや期待していることが感情を引き起こすととらえるからだ。
p97 「第5章 自分の感情に責任をもつ」より
人の言動は、わたしたちの感情を刺激することはあっても、感情の原因とはならない。人がとった行動が理由となって怒ることは、決してないのだ。p246 「第10章 怒りをじゅうぶんに表現する」より
でも、NVCでは、
他人の言動が怒りの感情の原因になることは
決してないと言い切る。
それに驚かされた。
どういうわけだ?と何度も読み返す。
判断する、批判する、評価する、解釈を加えるということはどれも、自分が必要としていることが満たされていないという遠回しの訴えだ。p102 「第5章 自分の感情に責任をもつ」より
怒りは、必要としていることと結びつきが損なわれた、心の底からの訴えを遠ざけてしまう考え方によって引き起こされる。p249 「第10章 怒りをじゅうぶんに表現する」より
本当のところは、自分が必要としていることが
満たされていないということだ。
僕は妙に納得してしまった。
しっくりと腑に落ちる感覚があった。
なぜかといえば、
自分の怒り、イライラを発生させているのは
「あいつ」がいるからだ、「あいつ」のせいだ。
と判断して、その相手に迫っても
いい結果になることがなかったからだ。
相手を屈服させてそのまま関係も断絶してしまうか、
反発して仲違いしてしまうか、
自分がその後ずっと嫌な気持ちを引きずってしまうか。
いずれもよかったとは思えなかった。
だから、相手のせいで怒りが芽生えることはない、
自分が必要としていることが満たされていないんだ
ってことに安堵感すら感じたのだ。
もう相手を責めなくていい、
相手を責めてしまった自分を責めなくていいんだと。
多くの人は、自分がほんとうに必要としていることを自覚するような考え方を身につけていない。必要としていることが満たされていないとき、相手の何がいけないのかを考えることに慣れてしまっている。p103 「第5章 自分の感情に責任をもつ」より
自分が苦痛を感じるのは人のせいである、だから相手は罰を受けるに値すると自分を信じ込ませてしまっていることが、暴力の発生につながる。p255 「第10章 怒りをじゅうぶんに表現する」より
「あいつ」のせいだと相手を責める行動は
であれば、学び直すことで、
人のせいにしない、自分を大切にするコミュニケーションを
身につけることは可能だろう。
僕のとっては希望だ。
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ちょうどNVCが学べる講座が紹介されてた。
僕は参加するよん。
【Online11/12-】共感的コミュニケーション基礎づくりコース(昼・夜)
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