自分の実感のなかから、ちょうどしっくりくる言葉に言語化する。それがその人にとっての血肉になる。
やればやるほどしょうもなくなることでなく、やればやるほどよくなることをしてゆかないと、働けば働くほど世界が劣化してゆくだけ。より働きやすくしたり働き方をイノベーティブにしたところで、「これ延々とつづけていったらアカンよね?」と思うようなことを重ねてゆくのは、面白くない。
— 西村 佳哲 (@lwnish) 2016年3月2日
自分がすることや仕事がまわりに与える影響を、想像力で100倍とか1000倍に増大させてみたとき、それによって状況がしょうもなくなるか、よりいい感じになっている気がするか?で判断すればいいと思うんですよ。
— 西村 佳哲 (@lwnish) 2016年3月2日
うんうん、そうだよなあ。
つくる、書く、教えるを仕事にしている西村佳哲さん。
うんうん、そうだよなあと思う一方で
こんな動画を見つけて聞いてみたらギクッとした。
でも、ぼくの言葉がどうしても影響力を持っていて。
そうすると、ワークショップの途中でですね、ぼくが二日前にあるいは今日の午前中にしゃべった言葉を自分の言葉のようにしゃべっている参加者の姿とかを見かけるんですよ、たまに。見かけたんですよ。
そうすると、言葉っていうのはその人自身なので。本来その人が自分の実感のなかから、それを言語化してちょうどぴったりする言葉にして話すと。
そこを大切にしなくちゃいけないはずなのに、ぼくが言葉を与えることで、なんていうのかな…なにかを奪ってるというかね。
その人が自分の言葉を語るはずのところで、ぼくの言葉が邪魔をしているなあってことを思うようになって。
(15:00あたりから)
人の話を聞いたり本を読んだりして、
話し手や著者の言葉をさも「自分が言語化」したかのように
思い込んでしまうことって、ぼく自身あるなあと。
あ、自分のことを言い当てられちゃったそんな感じ。
ここで語っているのはワークショップ中での
できごとについてだけれど。
自分が憧れる人や尊敬する人の
真似をするのは誰もがすることだよね。
ただ、その人が見つけたものを自分のものだと錯覚して
手に入れたかのように振る舞うのは違うよなあ、、、って。
といっても、自分の実感のなかから導きだしたものじゃないから
すぐにメッキが剥がれてしまうのだけれど。。。
あくまで参考に、そのまま鵜呑みにするんじゃなく。
同感や共感をしたとして、
どのあたりが?全てじゃないよね?
より具体的に自分の感じ方を探ってみるといいのかな~と。
かかわり方のまなび方: ワークショップとファシリテーションの現場から (ちくま文庫)
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