ぶらやまだ

日々のなかに遊び心を。自分らしさ探求中。

よい仕事は「スケジュールを引く」ことから

素晴らしい仕事っていうのは、スケジュールを引いておく。
クソみたいな仕事はスケジュールという概念すらない。
 
 
つい最近、ある仕事に関わった際に事前にスケジュール表を受け取った。それが、とても丁寧な仕事がされていた。
 
締切りがいつまでで、それまでになにが必要で何日かかるか、一目みて分かるように記載されているはもちろんのこと。
自分以外に関わる担当者も明記されていて、それぞれの連絡先も一覧できた。この仕事にどれだけの人が参加し、成り立っているのか。それが見えたんですよね。
 
それぞれに別の分野・担当で、違う会社・組織ではあるけれど、ひとつの仕事に一緒に関わるという意味では同じチーム。自分の仕事の領域の前後にも関わっている人がいて、それがより見えたことでほどよい緊張感と責任感が湧いた。
 
そういうスケジュールが引いてある仕事=丁寧な仕事を前にすると、いつも以上にやってやろう!と思う。
 
 
反対に、締切りも決まってなくて、担当者も曖昧で、誰が関わっているのかも不明瞭。予定、進行管理、スケジュールという概念がすっぽりない。
そういう仕事はたいてい雑でクオリティも低く、なんのために作っているのか誰も分かっていないことが多々ある。あるいは「偉い人」の自己満足、自己保身のためにあるような仕組みになっていたり。関わると消耗、疲弊の連続だ。
 
スケジュールなんて当たり前のことだろ?と思う人もいるかもしれないけれど、その当たり前のことができない、あるいは概念すらないというケースが意外に多かったりするんですよね。。。
 
思うに、少しでもよりよく仕事をしたいと願う人はその願いを果たすためのひとつの手段としてスケジュールを引き、関わる人間に周知してもらうように行動する。その跡が引かれたスケジュール表からちゃんと見て取れる。
 
そういう意味では、スケジュール・進行管理の概念がない仕事って、グチャグチャ雑なしょーもない成果物が生まれるべくして生まれてるってことなのかな。必然というわけですなー。
 
 
スケジュール表って、たった1枚の紙切れ。1ページのPDF。
けれど、そういう部分に人の思いは確実に反映されていて、受け取る人間に影響を与えているんだなと思った。
 
以上!

映画『舟を編む』を観て感じた人の心の機微 怒りが混じり合ったうれしさ

喜怒哀楽の「喜」と「怒」。一見すると相半する感情。プラスとマイナス。水と油。混じり合うことなんて、ないものかと思っていた。でも、人ってそこをぽーんと飛び越えて「喜」と「怒」を同時に表現する生き物でもあるんだなあと。

 

 

三浦しをん原作『舟を編む』という映画を観ました。

舟を編む

舟を編む

 

そのなかのワンシーン。主人公、馬締光也(松田龍平)がひそかに想いを寄せるヒロイン(宮崎あおい)に思い切ってラブレターを渡す場面。

 

主人公は自分の想いの丈を精一杯綴るんだけれど、極度なコミュ障なせいか、時代劇に出てくるような筆書きのお便りをしたためてしまう。

渡されても、は?なにこれ?いつの時代???って感じで(笑)

 

案の定渡されたヒロインは困ってしまい、でも、なんとか読みたいと考えて職場の上司にその手紙の内容を解読してもらうようにお願いする。(←健気ですな)中身はラブレターなのに(笑)!!!

で、上司に読んでもらったら、それが真面目な恋文だときたもんだから、さあ大変!どんだけ赤っ恥をかいたことでしょう!

 

その後、返事を待っていた主人公のもとへ向かい、事の顛末を一気呵成に畳み掛ける。こんなの渡されても読めねーし!!上司に読んでもらったらラブレターだっつーしよ!!こういうのって自分以外の誰かに読まれたら恥ずいじゃん、ヘタこいたー!!(意訳)。静かにブチギレ(笑)

 

でも、ブチギレながらも、実はヒロインは前々から主人公の変わったところに好意があって、だから、これが恋文ってどうかしてるぜ~と怒りながらも、同時に自分宛てのラブレターでもそれが如何なく発揮されていたことに対して、うれしさもにじんでいたんですよね。

 

結果、ふたりはお付き合いし始め、夫婦になっていく様子が物語では描かれていました。

 

 

このシーンを観て、喜怒哀楽の「喜」と「怒」って一緒に表現されることもあるんだなあと。きっと自分やまわりの人たちもひとつに限らない混じりあった感情を表していることってあるんだろうけれど、なかなか気づかないもので。

一見すると相半する感情で、混じり合うことなんて、ないものかと思っていた。けれど、人って「喜」と「怒」を同時に表現する生き物でもあるんだなあと、なんだかそこがおもしろくて、おかしかった。

 

以上!

『江戸時代の仙台を歩くー仙台地図さんぽ』で仙台の地形を知る

1691~1692(元禄4~5)年に作られたとされる地図と現代の地図を比較して見れる『江戸時代の仙台を歩くー仙台地図さんぽ』

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この古地図が描かれたとされる、約330年前の元禄期というのは伊達政宗公から数えて四代目の伊達綱村公が仙台を治めていた時代。仙台城下は約6万人程度の人口を抱えるほど繁栄し、街並みも最大規模に拡充されていたようです。同時期の江戸の人口は推定30~35万、東北の地でありながらなかなかの賑わいがあったんだろうなと想像します。

 

『江戸時代の仙台を歩くー仙台地図さんぽ』は、以前記事にもした『100年前の仙台を歩くー仙台地図さんぽ』の第二弾にあたるもの。第一弾が100年前、第二弾が300年前となっていて、合わせて読むとちょっとしたタイムトリップが味わえちゃいます。

地図・歴史好き必見!仙台の100年前と今が見比べる地図本「100年前の仙台を歩くー仙台地図さんぽ」。 - ゆるゆる脱力系男子 山田の生き方ヒントブログ

 

この『江戸時代の仙台を歩くー仙台地図さんぽ』を読んでみて、一番心躍ったのは、古地図の描写がめちゃめちゃきれいだったこと。仙台城下の町割りが碁盤の目にスマートに直線で描かれているんですよね。今から300年前っすよ。これを作った人ってすげえ技術を持ってたんだろうな。

 

で、さらに注目したのが、きれいな町割りが描かれているなかで、一部崩れているところがあったこと。特に県庁・市役所から仙台駅界隈。

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これってどうしてなんだろうと思って解説を読むと、河岸段丘の段丘崖、つまり、崖、あるいは急な斜面。だから、町割りの基本形である碁盤の目を割り出すことができなかったという。

 

河岸段丘ってなに???そういえば、「ブラタモリ仙台編」でも仙台は河岸段丘だとかなんとか言ってたなあと思い出して。

調べてみると、河岸段丘というのは川が長い歳月をかけて作り出した地形だということ。

河岸段丘…広瀬川が創りだした時間の造形

広瀬川によって、(川に近いものから)下町段丘・中町段丘・上町段丘の3つの河岸段丘が形成されており、境には崖面が見られます。

中町段丘が直接広瀬川と接する場所もあり、大きな高低差が生まれ、雄大な景観が見られるなど、仙台ならではの地形がここにあります。

河岸段丘…広瀬川が創りだした時間の造形

広瀬川の個性を読み解く | せんだいセントラルパーク

 

仙台の街は下町段丘・中町段丘・上町段丘、この3つの河岸段丘の上に作られているんだな。ふむふむ。

 

仙台の河岸段丘がひと目で分かるこんな素晴らしい図を発見!これすごい分かりやすい!市役所・県庁あたりはちょうど段丘の変わり目になってる。それが地図の描写にも反映されてるんだな。

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仙台の町並みをつくる河岸段丘

 

他にも、河岸段丘の高低差を色分けしてMAPにしたものも。

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http://www.hirosegawa-net.com/report/img/map_chikei.pdf

 

仙台を流れる広瀬川。この川が作り出した地形をうまく利用して仙台の街が形成されているんだなあ。

地図って平面だけど、よく観察することで、仙台の地形を立体的に捉える手がかりがあるってことっすねー。

 

以上!

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このイラストレーターがすごい!絶妙なヌケ感がたまらない ニシワキタダシ

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お気に入りのイラストレーターのひとり、ニシワキタダシさん。

確か、書店で偶然手に取った『レトロ印刷の本』という昔懐かしの印刷方法を特集した本にニシワキさんのイラストが掲載されていて、その絵柄に一目惚れした記憶が。

この絶妙なヌケ感がたまらないんですよね。コミカルで、とぼけていて、愛くるしくて、それでいて、強烈なインパクトがある。巧みです!

レトロ印刷の本 わら半紙、蛍光インク、ミシン製本…かわいくてアジがある印刷の楽しみ

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個人的には、この『かんさい絵ことば辞典』がニシワキタダシ入門書としてオススメです。独特なニシワキワールドを余すところなく楽しめるかと〜

かんさい絵ことば辞典

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以上!

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『君の名は。』この物語にぼくらが強く惹かれる理由 記憶を忘れる悲しさと思い出す喜び

記憶はできるが忘れてしまうという理不尽な機能をぼくら人間は生まれながらに抱え込んでいる。『君の名は。』は、この記憶を忘れる悲しさと、そして、思い出す喜びを描いた作品だと感じた。このテーマは人間なら誰しもが無視できないだろう。

この物語にぼくらが強く惹かれる理由はそこにあるんだとぼくは思った。

 

人間の記憶を忘れる悲しさと思い出す喜び

小説 君の名は。 (角川文庫)

小説 君の名は。 (角川文庫)

 

 『君の名は。』の小説版を読み進めている。映画版はぼくにとってはとても分かりづらい構成だった。「どうして?」と思う点がけっこうあって、それが最後まで見ても自分の中で回収されなかった。

新海誠監督最新作『君の名は。』が思ってたよりも楽しめなかった理由を書き出してみる - ゆるゆる脱力系男子 山田の生き方ヒントブログ

 

それがどうにも解せなかったので、小説版にも手を出してみたというわけで。映像では追い切れなかったところも、本だとまた戻って読めるところがうれしい。

 

読み進めていくうちに、現時点で分かってきたのはこれは男女の恋物語ではなかったということ。いや、もちろんラブストーリーではある。が、男と女がスキダーとかアイシテルーとかホレターだのは分かりやすい側面であって、その背後には人間の記憶を忘れる悲しさと思い出す喜びが描かれているなとぼくは感じた。

 

大事なことすら忘れてしまう

主人公の高校生・瀧はいろんなことを忘れてしまっている。この子の脳機能は大丈夫か?と思うほどに、大事なことすら抜け落ちていて「それめっちゃ大事なことなんだからちゃんと覚えておけよ!」と、こちらが若干イラっとしてしまう。けれど、彼のようにぼくらもいろんなことをかんたんにころっと忘れてしまうよなあと気づかされる。

 

ぼくもこの作品を見るまで忘れていて、思い出したのが数学者森田真生さんの記事。コンピュータの礎を築いたといわれる数学者アラン・チューリングに触れたもの。そのなかで、『君の名は。』の物語と共通する部分があったよなと記憶の底から蘇ってきたのだ。

 生まれたばかりの幼子は、母乳を自分の内から来るものとして認知するという。母も子も同じひとつのもので、内と外の区別がない。ところがあるときこどもは、「そと」ということに覚醒する。このとき、それまで同じひとつのものだった母が他者となり、環境となる。そうして同じひとつのものから「片方」を失った片割れとして、「私」が誕生する。「片方」を失うことで、私は私になる。これが「私」に運命づけられた孤独の起源である。

 

 生きることは、失われた片方を探すことである。生の側にとどまって、片方を失ったまま、同じ一つの「もう片方」と出会おうとすることである。

 

 人は言葉を使って、同じひとつのものに、二つの名前をつけようとする。

 「物質と生命」と言ったり「生と死」と言ったり「善と悪」と言ったりして、同じひとつのものに、違う二つの名前をつけたがる。そうしていつの間にか、違う二つの名前の指し示していたものが、同じひとつのものであったことを忘れてしまう。

 いつしか失われた片方にも、私と違う名前が与えられ、私とは他なるものとして切り離される。切り離されたうえで、それを分析したり解析したり制御したりしようとする。そうして、自然について思考する。しかし、このときの自然は、もはや僕らと同じひとつの自然ではない。

 失われた片方と同じひとつのものとして出会うこと。

 

 それはいかにして可能だろうか。

森田真生公式ウェブサイト - Choreograph Life-

 

この物語にぼくらが強く惹かれる理由

人は自分にとって大切なこと・大事なことも忘れてしまう。脳のつくりがそうなってしまっているんだからしょうがない。とはいえ、記憶はできるが忘れてしまうこともあるというこの設計。よくよく考えて見ると、あまりにも不完全で曖昧で残酷な機能だよなと。そのためか、大切なこと・大事なことは忘れておきながら、そのくせどうでもいいことは覚えていて、そのどうでもいいことに忙殺されっぱなしな人のほうが圧倒的なんじゃないかな。

 

記憶はできるが忘れてしまうという理不尽な機能をぼくら人間は生まれながらに抱え込んでいる。『君の名は。』は、この記憶を忘れる悲しさと、そして、思い出す喜びを描いた作品だと感じた。このテーマは人間なら誰しもが無視できないだろう。

この物語にぼくらが強く惹かれる理由はそこにあるんだとぼくは思った。

 

※個人の感想です

以上!

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宮城県亘理町の郷土料理「はらこ飯」を食べると、秋を感じる

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http://www.datenawatari.jp/publics/index/6/

 

宮城県の南に位置する海に面した小さな港町、亘理町。漁業を中心に栄えたその町で、昔から食べられている郷土料理が秋鮭をまるごと使った「はらこ飯」。「はらこ」とは、鮭の腹の子=イクラのこと。

秋鮭の切り身と醤油ベースの出汁で炊いた炊き込みご飯の上に、はらこ=イクラをたっぷりとのせた、例えるなら鮭版の親子丼。ぼくの母の地元がその浜辺の町なので、秋口になるとよく実家の食卓に上っていたものだ。

 

どうしてそんなことを書き出したかといえば、仕事帰りに寄ったスーパーのお惣菜コーナーにそのはらこ飯が並んでいたから。食と思い出ってけっこうつながっているよね。

 

 

このはらこ飯の醍醐味は、鮭の切り身、イクラ、醤油出汁の炊き込みご飯、この三者が渾然一体となるところ!ホクホクの鮭の切り身、醤油に漬けこまれたイクラ、おこげの混じったご飯。それらを一緒に口の中に放り込むとイクラがぷちゅっとはじけて、鮭の身とごはんにからみあい、じわーっと旨味が広がる。んー、んまい。

うちの実家では炊き込みご飯を作るときには、電子ジャーではなく、年代物の大きなガス釜でご飯を炊いていた。これがまたおこげがめっちゃできていいんだよね。

巷にはイクラ丼なるイクラのみをフューチャーした少々お高くとまったお食事があるけれど、このはらこ飯は庶民の食べ物。飾ってないところがいいんだな。

 

 

はらこ飯が食卓に上ると、それはつまり秋の到来を意味していて。スーパーで目にしたときに、お、そういえば、今年ももう9月なんだよな〜と思ったのでした。

 

クックパッドでもレシピが載ってた。はらこ飯サイコーだど〜

cookpad.com

 

以上!

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50年前、仙台の街を走っていた幻の路線「仙台鉄道」

仕事の関係で仙台市の神社やお寺について過去の資料を調べていたところ、偶然知ったのが「仙台鉄道(仙台軌道)」という路線が1960年まで存在していたということ。

軽便っこのルート

 

仙台鉄道は、「軽便っこ」「軌道っこ」「汽車っこ」と呼ばれて親しまれ、便利な移動手段として、通勤・通学や商売の仕入れなどに利用されました。

大正7年に仙台軌道(株)としてスタートし、昭和2年に仙台鉄道と社名を変更しました。
通町から東照宮を迂回して、台原東部を通り北根から国道沿いを走り、七北田橋下手の鉄橋を渡って北上。
通町~七北田間は大正11年、七北田~大沢間は大正12年に開通し、大正14年には終点の中新田駅まで総延長約45キロメートルが開通しました。

「軽便っこ」には通町(市電開通に伴い北仙台に移設)、東照宮、八乙女、七北田、山ノ寺、陸前大沢、黒川小野、富谷、志戸田、吉岡、大童、大衡、本町、王城寺原、加美一ノ関、四釜、鳴瀬川、加美中新田、中新田の19の停車場(駅)がありました。

 

 蒸気機関車と従業員

 

昭和22年ごろに北仙台駅機関区で撮影された、機関車と仙台鉄道の従業員の方の写真です。

泉なつかし写真館―第1回 仙台鉄道(軽便っこ)と七北田村 | 仙台市泉区

 

仙台から北に位置する大崎市の中新田までを結ぶ小鉄道=軽便鉄道から「軽便っこ」と呼ばれ、利用する人たちから親しまれていたとか。昔、仙台には路面電車が走っていたとは聞いていたけれど、国鉄以外の鉄道が敷かれていたとは初耳で驚いた!(もしかしたら、他にもあったりするのかな?)

 

しかも、当時の路線は今の仙台市の街中を縦断するルートになっていて、今や住宅地となっているところを蒸気機関車がシュポシュポ走っていたんだと思うと、心躍る〜。ぼくは、いわゆる鉄道マニアではないけど、歴史好きなので、そういう発見があると気分はヒャッハーでござんす。

 

廃線跡が公園になっていたり、路地になっていたりして、その面影を今の仙台の街中で見れるところもあるみたい。ほぉ〜

 

鉄道好きな界隈ではそれなりに周知の事実だったのか、個人の方?でwebサイトにまとめられているものがけっこう見つけられたのでリンク貼っとこ。

 仙台鉄道仙台軌道(株)として大正6年に敷設請願、翌大正7年に許可を得た。明治の鉄道黎明期は鉄道忌避論というものがあって、鉄道という得体の知れない物が行き来することが避けられていた(蒸気機関車の火の粉で火事が起きる等)時期もあったが、そうして鉄道が通らなかった地域(特に旧街道沿いの街)は最初提灯行列までして鉄道が通らなかった事を喜んだというが、やがてその有用性が認められるにつれ、かつては反対していた地域の人々も鉄道の必要性を感じ始めた。そうして鉄道から取り残された旧街道沿いの街に鉄道を引こうという機運が高まり、各地に幹線から分岐する小鉄道=軽便鉄道が敷設されていった。


 仙台鉄道もそうした軽便鉄道の一つで、当初馬車軌道も念頭に置かれていたようであるが、政府の出した許可の条件は蒸気機関車を使用するとの条件付きであったという。 実際に工事が開始されたのは大正10年10月のことであり、大正11年10月には通町~八乙女間が開通、大正12年12月までに吉岡駅まで開通した。本来ここから古川へ陸羽街道に沿うルートを予定していたが、宮城県西北部に鉄道が無いこと、陸羽街道ルートを通る場合の鳴瀬川橋梁等の敷設費用、王城寺原の陸軍施設への鉄道敷設の必要性等、様々な理由から色麻町を経て中新田(西古川)へ至るルートに変更された。(いずれは吉岡から分岐して、古川に達する予定もあったらしい)


 この間、昭和元年に仙台鉄道(株)と社名変更し、中新田まで開通したのは昭和4年のことであった。その後戦中を無事にやり過ごしてきたが当時すでに経営は苦しい状態であり、戦後のアイオン、キャサリン台風で甚大な被害を受ける。この台風の復旧もようやく終わり、さぁこれからという昭和25年未曾有の風水害により仙台鉄道は息の根を止められてしまった。わずかに残った加美中新田~中新田間の運行だけでは経営もままならず、昭和35年、軌道を廃止しバス転換した。そして昭和37年に仙北鉄道・古川交通・塩釜交通との合併により宮城バス(宮城交通)となり、仙台鉄道は姿を消したのである。

仙台鉄道 予告編

 

この鉄道は当初人車軌道として計画されたが、のちに人力を馬力に変更した。しかし建設のための測量を開始すると、さらに動力として蒸気が不可欠と予想され計画から三度も変更されている。
また建設途中でルートが変更されたりと、開業までの道のりは多難であった。

仙台鉄道廃線跡を訪ねて

 

仙台鉄道は、かつて宮城県仙台市の通町駅と古川市(当時)の中新田駅を結んでいた軽便鉄道で、旧名を「仙台軌道」と称し、軽便鉄道としては珍しく43.9kmの路線に20の駅を有する長大な単線鉄道でした。

今は無き仙台鉄道、その路線図や歴史を訪ねる | タノシムタメノ

 

仙台鉄道とは、

大正11年の通町-七北田駅間の開通を皮切りに路線を延長、

昭和4年に北仙台-加美中新田駅が全通した、

軌間762ミリ(ナローゲージ)の軽便鉄道なのです。


その後の仙台鉄道は、戦後の不況で経営の悪化を辿り、

昭和23年のアイオン台風によって八乙女の鉄道橋が流失、

一部区間が不通となったことが引き金となり、

昭和35年に廃線に追いやられてしまいました。

 

廃線となってから既に60年が経過した仙台鉄道ですが、

その面影は現在でも市内各所で見ることができ、

その姿を求めて、夢中で廃線跡を巡ったのでした。

【ぶらり散歩】泉区七北田の仙台鉄道跡(仙台市内で見られる軽便鉄道の廃線跡)|歩王(あるきんぐ)のLet’sらGO!

 

以上!

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