ぶらやまだ

日々のなかに遊び心を。自分らしさ探求中。

答えを外に求める生き方から答えは自分の中にある生き方へ

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これでいいですか?
どうしたらいいですか?
答えを教えてくれませんか?

これまでずっとこうやって生きてきた気がする。
答えを求めにセッセと
外に出歩いていた時期もあった。

答えをまわりに求めておいて、
返ってきた答えに対して、
う〜ん、違うんだよな~と腹を立てることもしばしば。

アドバイスしてくれよ!って頼んでおいて、
そうじゃない!!ってブチ切れてるっていう、、、。
わしゃ悪質クレーマーかいなww

* * * 

んで、ついここ最近、
カウンセリングを受けるようになり、
自分と相談するようになって、
この自分のおかしな状態にはたと気づいた。

あれ?答えを外に求めてるっつーのが
そもそも間違ってたんじゃね???と。

自分にとっての答えは
自分しか分からないんじゃないかな?
答えは自分の中にあるのでは?

自分にとっての正解はまわりの誰かに聞いても分からんですよね。
返ってきたとしても、それはその人の正解であって、自分のじゃない。
だから、違うんだよな~と違和感があって当然だったわけだ。

自分はどうしたい?
なにができそう?
自分がこうありたいイメージってどんなだろう?

まわりの誰かに聞き回ってた姿勢から
自分が自分自身に問いかける姿勢に
少しずつ変わってきているなーと。

* * *

答えを外に求める生き方から、
答えは自分の中にある生き方へ。

なんかこっちの生き方のほうが
自分とつながれて、そして喜んでくれる。
そんな感覚があるのだ。

 

cotree.jp

soar-world.com

 

〜END〜

自分で自分のことを語る→整理される→行動できる

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少し前までカウセリングに通っていることを
恥ずかしいことだと思ってました。
自分のなかに、思い込みがあったんですよ。
カウンセリングは病気や弱っている人が受けるものだ、っていうね。

だから、まわりの人もそう思ってるに違いないんでしょ?
病気の人だと思われたらなんか恥ずかしい!耐えられない!
そう思ってました。

でね、その感覚が変わったのは
なんせカウセリングの時間が楽しいから。

* * *

自分にとってのカウンセリングとは、
自分が自分のことを語ることで
グチャグチャだったものが整っていくということ。
これがもうたまらなく喜びなのですよ!!

というか、その最中って、
自分のことに集中しまくってて、
とにかく夢中なんですよ。
んで、夢中になってカウンセラーとやりとりしてると
時間があっという間に過ぎている。
1時間が10分くらいの感覚。

え!?もう時間??もっと話したい!って気持ちになって、
この時に「あっ!今僕は夢中だったんだな」と気づいて、
これが自分にとって喜びなんすよね。

時間を忘れて無我夢中、
この状態って自分がこれをやりてえぞ〜!
って自分自身が訴えてると思ってて。

そのくらい、自分のことを自分の口で話すことをしてこなかった、
自分の欲求や願望をアウトプットしてこなかった
っていうことでもあると思うんですよね。
それは自分に対して謝りたいっすね〜。

* * *

思うに、なにかしら病的である人っていうのは、
自分のなかでいろんな思考や考えがグチャグチャになってて、
もう収集がつかない状態になっている人なんだと思うんですよ。

自分が自分の言動を理解できない、認められない。
結果、自己不信や自己否定の無限ループに陥ってしまうんじゃないかな。

自分にとってカウンセリングは
そのグチャグチャ状態を整理する絶好の場だと思う。
整理すると、じゃあ自分がなにをするといいのか
自ずと分かってくる感じ。

仕事で広告のデザインをしてるんだけど、
なににおもしろさを感じてるのかといえば、
たくさんの情報を整理しているときだなって改めて気づいた。

僕は整える、整理する、秩序立てることが好きなんだ。

cotree.jp

note.mu

 

〜END〜

自分が生きることを楽しむために欠かせないことってなあに?

ここずっと自己理解やコーチング、カウンセリングに
自分の時間を投入してみて、分かってきたことは
僕は自分のなかを整えたい、整理したいんだってことなのだ。

親の期待やら学校教育やら世間体やら、
一般的に世の中でいいとされていることみたいなもん、
そういうもんをなんでもかんでも浴びまくって35年。
ぐっちゃぐっちゃになってるのよねー。

自分にとって心地いいもの、合っているものを
選べばよかったんだろうけれど、
その選択眼や判断基準もグチャグチャのドロドロ〜ンになっていて、
だから、この状態が気持ち悪いんじゃーーーー!!!
と自分のなかの自分が叫んでいるなと思って、
そそくさと整えることをやり始めていたわけだ。
書いてて自分でもようやく自分の行動を理解できたぞ。

んで、整えてきたなかで見えてきたのは、
「自分が生きることを楽しむために欠かせないことってなあに?」
っていう問いを今自分に投げかけている段階。

 


おぼろげながらも書き出してみると、

・自分の話を最後まで否定せずに聞いてくれて、
関心をもって問いを投げかけてくれる存在

・没頭できること、夢中になれること

 

 

没頭力 「なんかつまらない」を解決する技術

没頭力 「なんかつまらない」を解決する技術

 

没頭できること、夢中になれることについては

この本が参考になった。

 

マーティン・セリグマンという心理学者が提唱したポジティブ心理学

そこで、人が幸福を感じるための要素は

「快楽」「意味」「没頭」であると定義した。


没頭=夢中になっていること、時間を忘れてのめり込んでしまうこと。


これを読んで「僕は没頭したいんだ!」って思った。
僕にとっては快楽が没頭じゃねえかと気づいたんすよね。

 

なにに自分は没頭できるのかなと振り返ってみると、

今やってるな〜と。

グチャグチャになっている状態を整えること。

カオスに秩序をもたらすこと。

 

自分が楽しくなることはもうすでに自分がやっていたんだな〜

 

〜END〜

ミレニアル世代とオンラインカウンセリング

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社会に出て働くことで、
思いもしなかったやりがいや楽しみが見つけられたりする。
その一方で、楽しいことばかりでなく、
禍々しい邪悪なるものの存在も確認することができるなと思うんです。
 
その一例が、忖度ばかりにエネルギーを使ってしまう組織であったり、
法律を無視したり、違法行為を平然と行ってしまうようなブラックな企業でしょう。
 
邪悪なるもの、っていうのは、
つまりは、人のエネルギーを奪ってしまうもの、
信用信頼を平気で裏切ってしまう人だと僕は思っとります。
 
生きていくうえで、
そういう邪悪さとは全く無関係ではいられないなあ
とよく思うんですよね。
 
 * * *
 
「ミレニアル世代」という言葉がありまして。
2000年代以降に社会人になった世代、
あるいは1980〜2000年に生まれた世代で
デジタルなものに触れて育ってきたカテゴリーのことを指すようで。
(いろいろ定義はあるみたい)
 
1983年生まれの僕もこの世代に入ります。
思うに、ミレニアル世代は邪悪なるものに敏感だと思うんですよ。
なんでかと考えてみると、
食うことに困っていない、
欲しいモノに飛びつかない、
地位や権力にも興味がない。
 
だから、邪悪なるものに汚染されながらも
我慢して生きることに違和感を感じやすいんだと思う。
…なんかおかしくね?
この感じ、気持ち悪ぃなあ…
みたいな感じで。
 
加えて、その邪悪さから抜け出す術を探せる感覚も持ち併せていると思う。
それが「困ったら専門家に相談してみる」
 
邪悪さに蝕まれつつある時って、
自分ひとりでは判断することが難しい状態になってるんすよね。
邪悪さの影響で自分が不調をきたしてしまうから。
そんなときに自分の状態を整えられるのが
「困ったら専門家に相談してみる」という選択。
具体的にはカウンセリングやコーチング。
 
僕が実際に利用したものだと、
そうだんドットミーcotreeが挙げられます。
(おそらく他にもまだまだあると思う)
 
 

 
もともと僕自身、カウンセリングやコーチングって言うと
ちょっと縁遠いもののイメージがあったんですよね。
でも、自宅で受けられて、予約もめちゃ簡単なところが
心理的なハードルがグッと下がる感じがしたんですよ。
 
この2つのサービスに共通するのが
全てがオンラインで完結していること。
相談はもちろん、予約から支払いまでがweb上で済んでしまう。
つまり、利用する人の前提として、
オンラインで完結することに抵抗がないってことですよね。
 
自分の不調や違和感を感知することに長け、
デジタルでサービスを受けることがふつうな感覚のミレニアル世代と
オンラインでのカウンセリング、コーチングはとても親和性が高いと思う。
今後オンラインで相談できるサービスはさらに増えていくんじゃないかな。
 
カウンセリングもコーチングもまだまだ日本では一般的ではないけれど、
これから日本の土壌に合わせて新しい相談の形が登場し、
それが当たり前になっていく予感がするな。
 
* * *
 
食うことに困らなくなり、欲しいモノに飛びつかなくなり、地位や権力にも興味がない。
僕らの世代ですらそうなのだから、下の世代はもっともっと顕著になってくる。
だとしたら、これから求められるのは
自分が自分らしく生きられることを支援する組織、サービスなんじゃないかな。
 
 
〜END〜

Meeeラボで自己理解

先月から「Meeeラボ」という

オンラインコミュニティに参加してみたのでございます。

jibun-compass.com

#Meeeラボとは、「自己理解をアタリマエにして、自分の才能を活かせるようになる」ことを目的としたコミュニティです。Meeeラボに入れば、自分が持っている強みや才能に気づくことができ、普段の生活での活かし方を実践を通して知ることができます。

個人的にはここに共感するものが▼

理想の姿は、自分の内側にある。

産まれてから衣食住に困った経験がないミレニアル世代が求めるものは、車や家などのモノを所有することでもなければ、地位や名誉得ることでもありません。

我々は、
● 何かに情熱を持って取り組んでいる人
● やりたかったことを実現している人
● 人から必要とされ世の中の役に立っている人

に魅力を感じるのです。理想は自分の外側ではなく、内側に存在します。

 
うんうん、内側なんすよね〜
 
* * *
 
んで、参加したきっかけは、その内側=自分のことをよく知りたいから。
 
自分がなにが好きで、なにがやりたくて、なにに興味があるのか。
自分でもなんでそんなことも分からないんだろうって恥ずかしくも思う。
どうして分からないんだろう?
なんで自分のことなのに?
なぜ?なぜ?なぜ???
 
思うに、自分のことより他人のことに忙しいから。
自分の気持ちや感情のことより、
他人のニーズに応えるのが先っていう習慣が染み付いてしまってるのよね。
だから、いざ自分のことを知ろうと思っても自分が応答してくれないっつー 。。。
だったら、自分ひとりで先に進まないなら、
進みそうなところに行ってみるのがいいんじゃないのかな。
 
Meeeラボはストレングスファインダーという自己理解ツールを
共有しあえるところがいいと思ったんですよ。
それで相手の全てが分かるわけじゃないけれど、
ストレングスファインダーが「共通言語」として機能する場だということで
だから、個人的に安心感があったんすよね。
 
それと、オンラインコミュニティ、オンラインサロンにも興味があって、
地方に住んでいる身としてどのくらい利用価値があるのか気になった。
合わなかったら、辞めればいいしーってな気持ちで。
 
* * *
 
で、参加して1ヶ月経ってみての感想。
 
●よかったこと
・自己理解が深まった
自己理解に興味がある人たちの集まりだから、
関連する情報が毎日投稿される。
ひとりじゃアクセスできそうもなかった情報を知り得るのはありがたいっすね。
(ただ、どれを受け取るかはその人次第なところはあるけれど。)
ちょこちょこ勉強会もあるんで楽しく深く学べる。
 
・相談することが身近になった
コミュニティ内ではコーチングが当たり前に行われてて、
ストレングスファインダーをどう活かしたらいいか、
仕事のこと、人間関係のこと、などが誰でも相談できる。
ひとりで考えても分からないことは
誰かに相談することもできるんだっていう選択肢を持てるようになった。
アメリカとかだとマネジメント層の人たちは
コーチングを日常的に利用してるらしい。
どんどん人に話す、相談できるって精神的にも安心しますわ〜 
 
・オンラインでの会話が身近になった
コーチングもそうだし、コミュニティ内での勉強会も
zoomというオンラインツールで行ってる。
実はスカイプすら食わず嫌いで使ったことなかったんだけど、
zoom使ってみたらこりゃあ便利だわ〜。
もう距離をハンデとは思えないっすね。
そのくらい普通に会話できるんだもの。
 
●気になったところ
facebookの画面が見づらい
facebookの機能を使ってコミュニティのやりとりは行われているんだけど、
そのfacebookの表示される画面が少し見づらい。。。
 
スレッドをテーマごとに立てていくから、
それぞれ書き込みがないと下に埋もれていく。
めっちゃスクロールしないと見れないのよね。
 
これはfacebookの性質上変えられないところなんだろうなー。
 
* * *
 
結論、地方住まいでもオンラインコミュニティに参加する価値はあり!
だと個人的には思った。
他のオンラインコミュニティにも参加してみよっかなと思えるくらい。
地方に住んでる人こそオンラインコミュニティ、オンラインサロンに
入ってみると いいんじゃないのかな〜。

 

〜END〜

「怒り」は自分が満たされていないという叫びだ

怒りの核には、必要としているがいまだ満たされていないことがある。
p250 「第10章 怒りをじゅうぶんに表現する」より
NVC 人と人との関係にいのちを吹き込む法 新版

NVC 人と人との関係にいのちを吹き込む法 新版

 

 

以前書いた、衝撃を受けた非暴力コミュニケーション(NVC)。  

改めて『NVC  人と人との関係にいのちを吹き込む法』を読んで、
強烈に自分に突き刺さったのは「怒り」についての記述。

 人の言動は、自分の感情を「刺激」することはあっても「原因」になることはない。(中略)人の言動をどう受け止めるかを「選択」した結果や、そのとき必要としていることや期待していることが感情を引き起こすととらえるからだ。

p97 「第5章 自分の感情に責任をもつ」より

 人の言動は、わたしたちの感情を刺激することはあっても、感情の原因とはならない。人がとった行動が理由となって怒ることは、決してないのだ。
p246 「第10章 怒りをじゅうぶんに表現する」より
 今まで腹が立つことが多かった。
 
約束や時間を守らない人。
それでいて悪びれることもない人。
高圧的な態度で迫ってくる人。
それでいて、自分より立場が上の相手にはヘコヘコする人。
徹夜してがんばってる感出す人。
睡眠時間の短さをアピールしてくる人。
悲壮感漂わせる人。
自分の話ばかりして、こちらの話には耳を貸さない人。
逆ギレする人。
などなど、、、
 
そういう「バカ」な人たちの
言動ひとつひとつにムカついていた。
こいつらの一挙手一投足がおれをイライラさせやがる!
おれは被害者だ、悪いのはあいつらだ、って。
 

でも、NVCでは、

他人の言動が怒りの感情の原因になることは

決してないと言い切る。

それに驚かされた。

どういうわけだ?と何度も読み返す。

 

 判断する、批判する、評価する、解釈を加えるということはどれも、自分が必要としていることが満たされていないという遠回しの訴えだ。
p102 「第5章 自分の感情に責任をもつ」より 
怒りは、必要としていることと結びつきが損なわれた、心の底からの訴えを遠ざけてしまう考え方によって引き起こされる。
p249 「第10章 怒りをじゅうぶんに表現する」より
 つまり、怒りの反応は極めて表面的なもので、

本当のところは、自分が必要としていることが

満たされていないということだ。

 

僕は妙に納得してしまった。

しっくりと腑に落ちる感覚があった。

 

なぜかといえば、

自分の怒り、イライラを発生させているのは

「あいつ」がいるからだ、「あいつ」のせいだ。

と判断して、その相手に迫っても

いい結果になることがなかったからだ。

 

相手を屈服させてそのまま関係も断絶してしまうか、

反発して仲違いしてしまうか、

自分がその後ずっと嫌な気持ちを引きずってしまうか。

 

いずれもよかったとは思えなかった。

だから、相手のせいで怒りが芽生えることはない、

自分が必要としていることが満たされていないんだ

ってことに安堵感すら感じたのだ。

 

もう相手を責めなくていい、

相手を責めてしまった自分を責めなくていいんだと。

 

多くの人は、自分がほんとうに必要としていることを自覚するような考え方を身につけていない。必要としていることが満たされていないとき、相手の何がいけないのかを考えることに慣れてしまっている。
p103 「第5章 自分の感情に責任をもつ」より
自分が苦痛を感じるのは人のせいである、だから相手は罰を受けるに値すると自分を信じ込ませてしまっていることが、暴力の発生につながる。
p255 「第10章 怒りをじゅうぶんに表現する」より 

 「あいつ」のせいだと相手を責める行動は

慣れや学習によるところが大きいようだ。
 

であれば、学び直すことで、

人のせいにしない、自分を大切にするコミュニケーションを

身につけることは可能だろう。

僕のとっては希望だ。

 

    *    *    *    *    *

 

ちょうどNVCが学べる講座が紹介されてた。

僕は参加するよん。

【Online11/12-】共感的コミュニケーション基礎づくりコース(昼・夜)

  

〜END〜

NVCフェスで体験した「聖なる誓い」と「タイムトラベル」

9/15〜17の3日間行われていたNVCフェス。

その2日目に僕は参加していた。

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NVCフェス2018秋

 

そこで「聖なる誓い」と「タイムトラベル」という、

へんなワークをした。

  

「聖なる誓い」は子どもの頃に

自分に課した誓いのことだそうで。

それを解除するのに過去に遡って、

当時の自分に逢いに行くのに

「タイムトラベル」という手法を使うといった流れ。

 

NVCを学んでいても、

相手の話をちゃんと聞こうと思っても、

なぜかどうしても抵抗があるという場合に

取り組むものらしい。

 

   ✳︎   ✳︎   ✳︎   ✳︎

 

怒鳴る人や約束を破る人を見ると

ハラワタが煮えくり返って許せなくなる。

僕はその時間にこの課題に挑戦してみた。 

 

そういう感情になったのは、いつが最初か振り返る。

思い出せるのは中学になって、

先輩>後輩という序列が登場したとき。

年齢がひとつふたつしか違わないのに、

高圧的な態度をとる先輩に憤りを感じた。

 

講師の方からのいくつかのやりとりを経て、

「目上の人に対してなにか自分を大切にしてもらいたいことがあったのかな?」

と聞かれた。

 

そのとき脳裏に浮かんだのは、兄だった。

5歳年上の兄。

ちっとも優しくしてくれなかった。

僕はまるで子分やパシリのような扱い。

でも、そんな扱いを受けていながらも、

兄から認められたくてその役割を受け入れていた。

 

そんな関係も兄が中学にあがる頃から少なくなり、

会話も次第に減っていった。

そして、社会人になり、お互いに実家にほとんど帰ることもなく、

もう何年も顔を見ていない。

 

それなのに、兄のことを思った。

優しくしてくれなくて、さびしかった。

守ってくれる素敵なお兄ちゃんでいてほしかった。

でも酷い扱いで、僕は自分を犠牲にして

それに従うほかなかった。

 

   ✳︎   ✳︎   ✳︎   ✳︎

 

さらに、セッションが進むうちに、

兄も大変な立場に置かれていたんだなってことが分かってきた。

父親の役割を背負っていたこと。

 

父は仕事で忙しかったのか、幼少時代に父との思い出がない。

だからなのか、兄は兄でありながら、

父としての役割も引き受けてしまっていたのかもしれない。

 

そうなってしまったのは、

誰も悪いわけでもなく、

兄も父もがんばった結果なのだ。

 

父は父で家族のためにがんばった。

兄は兄で兄弟のためにがんばった。

そして、弟である僕は僕で、がんばった。

結果は、どうあれ、みんな一生懸命がんばったんだよな。

 

そう思うと、やり切れなかった。

 

みんながんばっていた。

その結果がこうなのだとしたら。

やり切れなかった。

 

がんばりが、悲劇的な事態を生む。

そういうこともあるんだなと思い知った。

 

   ✳︎   ✳︎   ✳︎   ✳︎

 

僕はがんばった結果、

兄の理不尽な要求にも応えねば。

自分を犠牲にしなきゃ価値がない。

意味がない。

 

そう誓うようになっていた。

その誓いは成長して大人になって必要なくなっても、

自分を縛り、自己犠牲を強いる。

まわりに気を遣い、空気を読み、顔色を伺う。

自分のことは後回しにして、ないがしろ。

 

それなのに、デカい声を上げ、約束を破るヤツがいる。

僕はこんなに気を遣ってるのに!

僕はやってあげてるのに!!

 

だから、僕は悲しくなり、

怒りに身体を震わせてしまうのだ。

 

   ✳︎   ✳︎   ✳︎   ✳︎

 

この悲劇を繰り返さないために

僕がこれからできることはなんだろう?

そう考えるようになった。

 

まずは、がんばってきた自分を

ねぎらうこと・いたわることなんじゃないかなと思う。

 

僕はがんばってきたんだな。

今までとてもがんばってきたんだな。

 

だから、ここいらで、よくがんばったね。

もうがんばらなくていいんだよ。

って言ってあげよう。

 

よくがんばったね。

充分だよ。

もうがんばらなくていいんだよ。

これからは自分のために生きようよ。

 

よくがんばったね。

 

nvc-japan.net

 

〜END〜

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