『君の名は。』この物語にぼくらが強く惹かれる理由 記憶を忘れる悲しさと思い出す喜び
記憶はできるが忘れてしまうという理不尽な機能をぼくら人間は生まれながらに抱え込んでいる。『君の名は。』は、この記憶を忘れる悲しさと、そして、思い出す喜びを描いた作品だと感じた。このテーマは人間なら誰しもが無視できないだろう。
この物語にぼくらが強く惹かれる理由はそこにあるんだとぼくは思った。
人間の記憶を忘れる悲しさと思い出す喜び
『君の名は。』の小説版を読み進めている。映画版はぼくにとってはとても分かりづらい構成だった。「どうして?」と思う点がけっこうあって、それが最後まで見ても自分の中で回収されなかった。
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それがどうにも解せなかったので、小説版にも手を出してみたというわけで。映像では追い切れなかったところも、本だとまた戻って読めるところがうれしい。
読み進めていくうちに、現時点で分かってきたのはこれは男女の恋物語ではなかったということ。いや、もちろんラブストーリーではある。が、男と女がスキダーとかアイシテルーとかホレターだのは分かりやすい側面であって、その背後には人間の記憶を忘れる悲しさと思い出す喜びが描かれているなとぼくは感じた。
大事なことすら忘れてしまう
主人公の高校生・瀧はいろんなことを忘れてしまっている。この子の脳機能は大丈夫か?と思うほどに、大事なことすら抜け落ちていて「それめっちゃ大事なことなんだからちゃんと覚えておけよ!」と、こちらが若干イラっとしてしまう。けれど、彼のようにぼくらもいろんなことをかんたんにころっと忘れてしまうよなあと気づかされる。
ぼくもこの作品を見るまで忘れていて、思い出したのが数学者森田真生さんの記事。コンピュータの礎を築いたといわれる数学者アラン・チューリングに触れたもの。そのなかで、『君の名は。』の物語と共通する部分があったよなと記憶の底から蘇ってきたのだ。
生まれたばかりの幼子は、母乳を自分の内から来るものとして認知するという。母も子も同じひとつのもので、内と外の区別がない。ところがあるときこどもは、「そと」ということに覚醒する。このとき、それまで同じひとつのものだった母が他者となり、環境となる。そうして同じひとつのものから「片方」を失った片割れとして、「私」が誕生する。「片方」を失うことで、私は私になる。これが「私」に運命づけられた孤独の起源である。
生きることは、失われた片方を探すことである。生の側にとどまって、片方を失ったまま、同じ一つの「もう片方」と出会おうとすることである。
人は言葉を使って、同じひとつのものに、二つの名前をつけようとする。
「物質と生命」と言ったり「生と死」と言ったり「善と悪」と言ったりして、同じひとつのものに、違う二つの名前をつけたがる。そうしていつの間にか、違う二つの名前の指し示していたものが、同じひとつのものであったことを忘れてしまう。
いつしか失われた片方にも、私と違う名前が与えられ、私とは他なるものとして切り離される。切り離されたうえで、それを分析したり解析したり制御したりしようとする。そうして、自然について思考する。しかし、このときの自然は、もはや僕らと同じひとつの自然ではない。
失われた片方と同じひとつのものとして出会うこと。
それはいかにして可能だろうか。
森田真生公式ウェブサイト - Choreograph Life-
この物語にぼくらが強く惹かれる理由
人は自分にとって大切なこと・大事なことも忘れてしまう。脳のつくりがそうなってしまっているんだからしょうがない。とはいえ、記憶はできるが忘れてしまうこともあるというこの設計。よくよく考えて見ると、あまりにも不完全で曖昧で残酷な機能だよなと。そのためか、大切なこと・大事なことは忘れておきながら、そのくせどうでもいいことは覚えていて、そのどうでもいいことに忙殺されっぱなしな人のほうが圧倒的なんじゃないかな。
記憶はできるが忘れてしまうという理不尽な機能をぼくら人間は生まれながらに抱え込んでいる。『君の名は。』は、この記憶を忘れる悲しさと、そして、思い出す喜びを描いた作品だと感じた。このテーマは人間なら誰しもが無視できないだろう。
この物語にぼくらが強く惹かれる理由はそこにあるんだとぼくは思った。
※個人の感想です
以上!
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