ぶらやまだ

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【ボクらに悲しいという感情がある理由】カナシミを出しきるとそれはヨロコビにもなりえるから。映画『インサイド・ヘッド』を観て思ったこと。

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おとといの記事で「観たい!」と思っていた

『インサイド・ヘッド』を観に映画館へ。

 

kunipi.hatenablog.jp

「ヨロコビ」の間や沈黙や静けさのなさが見ててしんどい。

本音を言えば、

エンターテイメントとしての

おもしろさは個人的にイマイチかなあと。

 

次々と出来事が起こって、

ストーリーは展開していくんだけど、

次はどうなるんだろう!とかの

ハラハラドキドキする感覚があまりなくって。

 

たぶんきっと、主要キャラクターの「ヨロコビ」の

しゃべりの多さがけっこうしんどかったからかなと。

 

まくしたてるセリフ、せわしない振る舞いに

たいしたメッセージ性も見られなくて

これを延々と見せられるとちょっとキツいなあと。

 

このヨロコビの間や沈黙や静けさのなさが

人によっては息苦しく感じてしまうような気がしました。


といっても、

ヨロコビはそういう性格のキャラクターなのでしょうね。

この息苦しさ、しんどさを伝えたいってことだったりするのかな???

(個人的には「ヨロコビ」という名前より

元気とか能天気とかのほうがしっくりくる気がしたけれど。)

 

うれしいことを分ちあうとさらにうれしいように、悲しいことも分ちあえるのかな。

でも、

カナシミはなんであるんだろう?

というテーマの設定は

やっぱり引きつけられるものが。

 

映像のなかの「カナシミ」の行動、

これは観る価値があるなと。

 

序盤の行動は意味不明で、ドンくさくて、

邪魔者でしかないように描かれてる。

 けど、物語の中盤でカナシミが

泣いている人のそばにそっと座って、

「うんうん、それは悲しかったね。」と

声をかけてあげるシーンがあって。

 

そう共感してくれたことによって

相手は一段とうわーんと大粒の涙を流して。

流しきったと思ったら、

ケロリとして自分で次に進もうとする。

 

涙を流しきる=悲しみを出しきると

自分のチカラで次に進めるのかあ!と。

 

うれしいことを分ちあうとさらにうれしいように

悲しいことも分かってくれる人がいると感情が深まるのかな。

その体験は悲しいからマイナスなものじゃなくて、

むしろ貴重な体験なんじゃないかなと。

 

「元気出してよ」は相手を心配してるんじゃなく、自分の精神の安定のための言葉。

悲しんでる人を見かけようものなら

「元気出してよ」とか「前向きに考えよう」とか言いがちで

これって悲しんでる人にどう接したらいいのか分からなくて

その分からない自分を隠すために

つい「元気出して」とか「前向きに考えようよ」って

言ってしまうんだろうなって。

 

相手を心配してるんじゃなく、自分の精神の安定のため。

このへんは「ヨロコビ」のせわしない振る舞いと

重なるところがあるなと。
 

カナシミを出しきるとそれはヨロコビにもなりえるということ。

この物語を最後まで観ると分かるのは、

カナシミを表現できないことで

カナシミが暴走してしまうんだなあということ。

 

そして、カナシミを出しきると

それはヨロコビにもなりえるということ。

 

 

なので、

うれしかったこと楽しかったことと同じくらいに

悲しかったことさびしかったことも

これからブログに書いてこうと思います。

 

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