ぶらやまだ

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「壊れてしまったのなら、また直せばいい」そういう考え方が暴力なのかもしれない。映画『ハッピーアワー』の感想@せんだいメディアテーク。

https://www.instagram.com/p/BAn0P1qF1PJ/

映画『ハッピーアワー』を鑑賞。

ボク個人としては手放しで
よかった!おもしろかった!見てない人にもおすすめしたい!
と思えるような内容ではなかった。

なのに、こうして感想を書いてみているのはなぜだろう?
やっぱりそれはこの独特の映画の存在に
惹かれるところがあるからだと思う。

自分の会話やコミュニケーションのあり方が全く違うもののように感じられてしまう。

ボクのなかには、会話やコミュニケーションって
その場にいる人同士が互いに合わせていくもの、
協調・調和させていくものだっていう認識があった。

けれど、この映画に登場する人と人とがやりとりするシーンでは
そういう場面はほとんど見られなくて、
他の人はどうあれ自分がどう思っているかをさらりと出してしまう。

それでたとえぶつかっても衝突してもしょうがない、仕方ない。
本当に言いたいこと、思っていることを表現することに
それぞれが尽くしていて、
その結果、その後がどうなるとかに意識はフォーカスされない。

だから「それそこで言う?」というような光景が何度も映し出された。

それを見ていたら、
自分の会話やコミュニケーションのあり方が
全く違うもののように感じられてしまう。

これは映画だから、お芝居だから。
それで片付けてしまうのは違う気がしていて。

「壊れてしまったのなら、また直せばいい」そういう考え方が暴力なのかもしれない。

映画のなかでは、女性の方から男性に対して
「別れ」を切り出すシーンがたびたびあって。

言い放たれる男は意味が分からないと狼狽する。

男であるボクも
それはお互いの歩み寄りが足りなかったんじゃない?
恋人や夫婦を続けていく努力をどちらも怠っていたんでしょ?
両成敗だからまたやり直せばいいんじゃない?と、思ってしまう。

けれど、
そう思ってしまう時点でもう手遅れなのかな。
そう思ってしまうような人間だから別れを切り出されるのかな。

「壊れてしまったのなら、また直せばいい」という考え方。
それがとてつもない暴力なのかもしれないなって。

この対比ってなんだろう?

不思議だったのが
主人公のひとり「純」がひとりバスで帰るシーン。
写真を撮ってもらった女性と偶然一緒になる。

そこでその女性との会話が映し出されるんだけれど、
その内容がとりとめもなく、ダラダラとしゃべり続けて
この時間っていったいなに?と考えてしまう。

張りつめていてかと思えば、たるんだ描写もあって。
この対比ってなんだろう?
それもとても気になった。

https://www.instagram.com/p/BApRLfQF1BN/

 

 

映画『ハッピーアワー』についていろいろ書いてま〜す!

kunipi.hatenablog.jp

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