「もうお兄ちゃんだから、○○しなさい」への違和感。そういう「善意の見せかけ」みたいなものが人を傷つけ、自立を妨げるのかもしれない。
「もうお兄ちゃんだから、○○しなさい」への違和感。
以前なんどかブログに登場したことがある、
ボクがお慕い申し上げる西村佳哲さん。
その西村さんのワークショップで知り合い、
今でもゆる〜くつながっているのが
茨城の日立市に在住の宗像(ムナカタ)さん。
保育園に通う子どもさんのことで
ツイッターでこんなつぶやきをしてて。
この言い方を保育園の先生もよくしますが、あまりいい感じがしません。 RT @Hiroki_Komazaki: 「お兄ちゃんだから・・・これしなさい」という保護者の方の言い方は、あまり勧められません。役割の押し付けではなく、その子どもの気持ちをまずは受け止めよう、と… #子育て
— 宗形憲樹 (@munaken) 2015, 7月 30
「もうお兄ちゃんだから、○○しなさい」という言い方は、何のためにするのだろう?一見自立を促すように見えて、自分の労力を省くためのように感じられてしまうのだが。子どもの自立は、そういうところとは別なところから始まるんじゃないかな? #子育て
— 宗形憲樹 (@munaken) 2015, 7月 30
子どもは誇り高い生きものです。 その誇りを傷つけるところから自立は始まらないんじゃないかな? #子育て
— 宗形憲樹 (@munaken) 2015, 7月 30
確かに「もうお兄ちゃんだから、○○しなさい」って
言い方ってよく遭遇すると思う。
その言葉がもう市民権を得ているというか。
「善意の見せかけ」みたいなものが人を。
ムナカタさんの一連のツイートでボクが一番気になったのは
「一見自立を促すように見えて」というところ。
子どものためを思っているように見せかけている。
そういう「善意の見せかけ」みたいなものが
明確な悪意でないだけに、
投げかけられた人が気づかないレベルでじっくりじわじわと
人を傷つけて損ねてしまってるのかもしれないなあって。
自分も他の誰かにやっていたとしたら。
なんで気になったかと言えば、
こういう「善意の見せかけ」みたいなものって
自分も誰かにやってしまってないかなって思うから。
あなたのためにと見せかけて、
実は自分の利益のためでしかないことを
無意識的にやりかねない。
そういうことをやられて本当に嫌だった経験があるし、
なのに、それを自分も他の誰かに
やっていたとしたら、、、とちょっと考えてしまいます。
大人が自分の都合で発する「お兄ちゃんなんだから○○しなさい」という言葉は、「「共感」「無条件の信頼」「自己一致」の3つが揃っている相手の前では、人はその人自身の力でおのずと成長する」(ロジャース)の「自己一致」に反するから、自立を妨げることになるんじゃないかな? #子育て
— 宗形憲樹 (@munaken) 2015, 7月 31
邪悪なものが善意の顔をして紛れていたりするから。
無意識的にせよ、意識的にせよ
人の自立を妨げるようなことが
たぶんきっと無数にあって。
身につけたり、学習したり、
覚えたりすることも大切なんだろうけれど、
なかには、邪悪なものが善意の顔をして紛れていたりするから
スルーしたり、身を挺してガードしたり、
一目散に逃げたりする手もアリなのかなと思いました。