これぞ「気づき」のモデルケース。気づいたら、人は行動を起こさずにはいられない。
昨日のブログに書いたのは、
「気づき」を得ると、それまであったのに
自分の目には映らなかった世界が見えるようになる。
なので、生きていくのが柔軟に、
選択肢も広がっていくんだー、などあれこれと。
その「気づき」つながりで、
「わたしの暮らし〜ミニマム生活。」という
ブログを書いていらっしゃる小豆さんの記事のなかで、
これぞ「気づき」だ!!というものがあったので。
''〇〇してはいけない教育 ''を今まで推進してきた結果、すでにそれが限界にきているのではないかと考えさせられます。"廊下を走らない" "忘れ物をしない" "池の周りのトカゲを取らない" 等々。集団生活をする上で、"〇〇してはいけない"ことを守るように働きかけることは、ルールを決め枠を設定するという点で、短期間で平安を取り戻すには 有効な手段かもしれませんが、どうも教育的ではないように思えてなりません。
そこで、ある日の朝会では"〇〇していこう教育"の方向として、「自分の使ったボールを片づけるのは当然だけど、もし、使い放しのボールを見つけたら、ぜひ、みんなのために片付けよう。一人ひとりがみんなのことを考えて行動しよう」という話をしました。
「パジャマは脱いだらカゴに入れなさい」
「早く宿題やりなさい」
「もう少し静かに歩きなさい」
命令口調ですよね。
言われていい気分はしませんよね・・・。
「パジャマは脱いだらカゴに入れよう」
「早く宿題やっちゃおう」
「もう少し静かに歩こう」
同じ事を言ってるのに、言い方を変えるだけで命令されてる感がなくなります。
"池の周りのトカゲを取らない"
には思わずほほえんでしまいましたが、
この学校だよりの校長先生のメッセージがすごいと思いました。
自分たちが長いこと推進してきた方法が
どうも教育的でなく「限界にきている」って気づいてます。
さらに、自分からそれを変えようって行動に起こしてる。
これってものすごいことだと思うんです。
ある意味で自己否定でもあるから。
でも、そこから目を背けないで行動してる。
「気づき」って、人に行動を起こさずには
いられないなにかを持っているんだろうな。
自分はどうかな?って振り返ってみることもまた同様に。
それと、「気づき」って言い換えれば、
「痛感する」とか「身にしみる」とか「胸を打つ」とか
頭じゃなくて、身体全体で感じるものでも
あるんじゃないかなーって思いました。