Meeeラボで自己理解
先月から「Meeeラボ」という
オンラインコミュニティに参加してみたのでございます。
#Meeeラボとは、「自己理解をアタリマエにして、自分の才能を活かせるようになる」ことを目的としたコミュニティです。Meeeラボに入れば、自分が持っている強みや才能に気づくことができ、普段の生活での活かし方を実践を通して知ることができます。
個人的にはここに共感するものが▼
理想の姿は、自分の内側にある。
産まれてから衣食住に困った経験がないミレニアル世代が求めるものは、車や家などのモノを所有することでもなければ、地位や名誉得ることでもありません。
我々は、
● 何かに情熱を持って取り組んでいる人
● やりたかったことを実現している人
● 人から必要とされ世の中の役に立っている人に魅力を感じるのです。理想は自分の外側ではなく、内側に存在します。
〜END〜
「怒り」は自分が満たされていないという叫びだ
怒りの核には、必要としているがいまだ満たされていないことがある。p250 「第10章 怒りをじゅうぶんに表現する」より
以前書いた、衝撃を受けた非暴力コミュニケーション(NVC)。
人の言動は、自分の感情を「刺激」することはあっても「原因」になることはない。(中略)人の言動をどう受け止めるかを「選択」した結果や、そのとき必要としていることや期待していることが感情を引き起こすととらえるからだ。
p97 「第5章 自分の感情に責任をもつ」より
人の言動は、わたしたちの感情を刺激することはあっても、感情の原因とはならない。人がとった行動が理由となって怒ることは、決してないのだ。p246 「第10章 怒りをじゅうぶんに表現する」より
でも、NVCでは、
他人の言動が怒りの感情の原因になることは
決してないと言い切る。
それに驚かされた。
どういうわけだ?と何度も読み返す。
判断する、批判する、評価する、解釈を加えるということはどれも、自分が必要としていることが満たされていないという遠回しの訴えだ。p102 「第5章 自分の感情に責任をもつ」より
怒りは、必要としていることと結びつきが損なわれた、心の底からの訴えを遠ざけてしまう考え方によって引き起こされる。p249 「第10章 怒りをじゅうぶんに表現する」より
本当のところは、自分が必要としていることが
満たされていないということだ。
僕は妙に納得してしまった。
しっくりと腑に落ちる感覚があった。
なぜかといえば、
自分の怒り、イライラを発生させているのは
「あいつ」がいるからだ、「あいつ」のせいだ。
と判断して、その相手に迫っても
いい結果になることがなかったからだ。
相手を屈服させてそのまま関係も断絶してしまうか、
反発して仲違いしてしまうか、
自分がその後ずっと嫌な気持ちを引きずってしまうか。
いずれもよかったとは思えなかった。
だから、相手のせいで怒りが芽生えることはない、
自分が必要としていることが満たされていないんだ
ってことに安堵感すら感じたのだ。
もう相手を責めなくていい、
相手を責めてしまった自分を責めなくていいんだと。
多くの人は、自分がほんとうに必要としていることを自覚するような考え方を身につけていない。必要としていることが満たされていないとき、相手の何がいけないのかを考えることに慣れてしまっている。p103 「第5章 自分の感情に責任をもつ」より
自分が苦痛を感じるのは人のせいである、だから相手は罰を受けるに値すると自分を信じ込ませてしまっていることが、暴力の発生につながる。p255 「第10章 怒りをじゅうぶんに表現する」より
「あいつ」のせいだと相手を責める行動は
であれば、学び直すことで、
人のせいにしない、自分を大切にするコミュニケーションを
身につけることは可能だろう。
僕のとっては希望だ。
* * * * *
ちょうどNVCが学べる講座が紹介されてた。
僕は参加するよん。
【Online11/12-】共感的コミュニケーション基礎づくりコース(昼・夜)
〜END〜
NVCフェスで体験した「聖なる誓い」と「タイムトラベル」
9/15〜17の3日間行われていたNVCフェス。
その2日目に僕は参加していた。
そこで「聖なる誓い」と「タイムトラベル」という、
へんなワークをした。
「聖なる誓い」は子どもの頃に
自分に課した誓いのことだそうで。
それを解除するのに過去に遡って、
当時の自分に逢いに行くのに
「タイムトラベル」という手法を使うといった流れ。
NVCを学んでいても、
相手の話をちゃんと聞こうと思っても、
なぜかどうしても抵抗があるという場合に
取り組むものらしい。
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怒鳴る人や約束を破る人を見ると
ハラワタが煮えくり返って許せなくなる。
僕はその時間にこの課題に挑戦してみた。
そういう感情になったのは、いつが最初か振り返る。
思い出せるのは中学になって、
先輩>後輩という序列が登場したとき。
年齢がひとつふたつしか違わないのに、
高圧的な態度をとる先輩に憤りを感じた。
講師の方からのいくつかのやりとりを経て、
「目上の人に対してなにか自分を大切にしてもらいたいことがあったのかな?」
と聞かれた。
そのとき脳裏に浮かんだのは、兄だった。
5歳年上の兄。
ちっとも優しくしてくれなかった。
僕はまるで子分やパシリのような扱い。
でも、そんな扱いを受けていながらも、
兄から認められたくてその役割を受け入れていた。
そんな関係も兄が中学にあがる頃から少なくなり、
会話も次第に減っていった。
そして、社会人になり、お互いに実家にほとんど帰ることもなく、
もう何年も顔を見ていない。
それなのに、兄のことを思った。
優しくしてくれなくて、さびしかった。
守ってくれる素敵なお兄ちゃんでいてほしかった。
でも酷い扱いで、僕は自分を犠牲にして
それに従うほかなかった。
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さらに、セッションが進むうちに、
兄も大変な立場に置かれていたんだなってことが分かってきた。
父親の役割を背負っていたこと。
父は仕事で忙しかったのか、幼少時代に父との思い出がない。
だからなのか、兄は兄でありながら、
父としての役割も引き受けてしまっていたのかもしれない。
そうなってしまったのは、
誰も悪いわけでもなく、
兄も父もがんばった結果なのだ。
父は父で家族のためにがんばった。
兄は兄で兄弟のためにがんばった。
そして、弟である僕は僕で、がんばった。
結果は、どうあれ、みんな一生懸命がんばったんだよな。
そう思うと、やり切れなかった。
みんながんばっていた。
その結果がこうなのだとしたら。
やり切れなかった。
がんばりが、悲劇的な事態を生む。
そういうこともあるんだなと思い知った。
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僕はがんばった結果、
兄の理不尽な要求にも応えねば。
自分を犠牲にしなきゃ価値がない。
意味がない。
そう誓うようになっていた。
その誓いは成長して大人になって必要なくなっても、
自分を縛り、自己犠牲を強いる。
まわりに気を遣い、空気を読み、顔色を伺う。
自分のことは後回しにして、ないがしろ。
それなのに、デカい声を上げ、約束を破るヤツがいる。
僕はこんなに気を遣ってるのに!
僕はやってあげてるのに!!
だから、僕は悲しくなり、
怒りに身体を震わせてしまうのだ。
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この悲劇を繰り返さないために
僕がこれからできることはなんだろう?
そう考えるようになった。
まずは、がんばってきた自分を
ねぎらうこと・いたわることなんじゃないかなと思う。
僕はがんばってきたんだな。
今までとてもがんばってきたんだな。
だから、ここいらで、よくがんばったね。
もうがんばらなくていいんだよ。
って言ってあげよう。
よくがんばったね。
充分だよ。
もうがんばらなくていいんだよ。
これからは自分のために生きようよ。
よくがんばったね。
〜END〜
自分で自分を隠しているから生きづらい
僕はずっと僕自身を隠していた。
そして、隠していたことすら忘れていた。
だから、生きづらかったんだよな。
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内向型と外向型という傾向を
知ってからというもの、
内向型に近いであろう自分は
どう生きれば自分を満たせていけるのか
あれこれと考える毎日。
内向型に関する本を調べてみると
海外の方が書いたものが多いなか、
渡瀬謙さんという方の存在を知る。
内向型の強みを活かして、
サイレントセールスという
しゃべらない営業術を提供している。
プロフィールを見ると、
以前はコピーライターとして、
広告の仕事もしていたそうだ。
そして、内向型について
誰でも相談にのってくれるという。
僕の仕事は広告のデザインなので、
少し親近感を覚え、
相談できるのならこの機会だと思い、
思い切ってダメもとで申し込んでみた。
するとまもなく、
快くお引き受けいただけるという趣旨の
メールが返ってきたではないですか!
うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ〜マジかぁぁぁ〜
自分から申込んでおいて、
いいの?本当にいいの?と
慌てふためくっていう 笑
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そして、当日。
僕が事前に相談したかったことは
内向型をどう仕事に活かしていけばいいか
ということだった。
けれど、結果的には
自分にとって思ってもみないところに着地することに。
それに、今でも驚いている。
●僕には表現したいことがある、けれど、それができていない
●表現したものに共感してもらいたい
●テーマは自分が今まで隠してきたこと=
内向的なのにそれを隠してきた自分
デザインの仕事は嫌いではない。
けれど、いまひとつ情熱を注げられるものがなかった。
だから、どこかで自信がない自分がいた。
独立してやっていくイメージも持てなかった。
絵やイラストにしてもそうで、
自分がこれを表現したいんだ!っていう題材が
ないままだった。
だから、人に見せるものじゃないと
どこかで諦めていた。
それが渡瀬さんと会話するなかで
え?僕って表現したいの?
そうか、テーマが欲しかったのか!
だったら描けそうだぞと。
渡瀬さんの言葉で一番響いたのは
内向型であることがつらいんじゃなくて、
内向型を隠していることがつらいんだ、ということ。
内向型といっても、人それぞれだと思う。
口下手、人見知り、あがり症、内気、敏感、繊細、ナイーブ、、、
僕は隠していた。
恥ずかしいから、みっともないから、
バレないように。
でも、それが自分である証であり、特長なんだよね。
他の人には替えられない
自分だけのオリジナリティというわけだ。
ずっと隠していたから、気づけなかったんだな。
自分の一番のオリジナリティに。
それって、自分にとってのテーマになるんじゃね?って思った。
他の人には手が出せない、自分だけがやれる題材。
一生追い続けられる、永遠ネタに溢れている。
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いや〜、とはいえ、
隠してきたものをすぐにオープンにしちゃおうっていっても
これまでの自分が邪魔をしちゃう。
だもんで、少しずつオープンに していければなと。
んで、内向的な自分を表現するにあたって、
どう伝えればいいのかなと考えてみるに、
ぷぷぷと笑えるのがいいなって。
そうしたほうがまわりも受け入れやすいんじゃないかと。
試しに描いてみたのがこちら。
どうかな〜〜〜?
〜END〜
内向型と外向型
内向型と外向型の違いを色々まとめてみました。書き足りないけど大体こんな感じ!楽しかった(´ω`*)
— のあ (@noano_twi) 2018年8月19日
色々書いてるけどあくまでこれは一例です。 pic.twitter.com/KQt83T3Sgh
自分の感情をどうすればいいか分からなかった
それまでにはなかった
自分のなかに渦巻く表現しにくい、なにか。
それも自分の感情なんだと、気づけなかった。
どう扱っていいか分からなかった。
だから、見ないようにした。
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中学にあがるとそこでは
僕にとって全く不可解なルールが待ち受けていた。
先輩>後輩の上下関係。
同じ学年内でのヒエラルキー。
イジメ。
次第に学校に行くのが楽しくなくなっていった。
行かなければならないものに変わっていった。
義務感。
みんな行ってるから、行くしかない。
当時はそれ以外の選択肢が考えられなかった。
そういう状況では、
「苦しい」や「つらい」気持ちでいっぱいだったと思う。
今振り返ればそう思うけれど、
その時の僕は気づけなかった。
気づかなかったのか。
気持ちや感情をどうすればいいか分からなかった。
「つらい」気持ちがあったとして、
それをどう扱えばよかったのだろう?
大人になった今の自分でも悩むのに、
中学生の僕はなおのこと分からなかったと思うんだ。
それに加えて、
「苦しい」とか「つらい」みたいな気持ちを
抱くこと自体がいけないことのような空気があった。
弱い、情けない、男らしくない、ネガティブ、、、
それらはあってはいけない、と。
✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎
中学生になって、
自分にとって苦痛になることがグンと増えた。
それは思ってもみなかった事態だった。
この事態のなかで、
自分のなかで急激に増えていった不快な気持ちを
僕はどうすればいいか分からなかった。
不快な気持ちを持つこと自体
いけないことのように感じていた。
それが自分の感情なのだと
認めることもできなかった。
だから、見ないようにした。
なかったことにした。
フタをした。
そうすることが
その時の僕ができる
精一杯の行動だった。
〜END〜
「心の底からの訴えを遠ざけてしまうコミュニケーション」が自分も相手も傷つけている
人を思いやる気持ちとともに、与え、受け取ることによろこびを感じるのは、本来自然なことだ。しかし、わたしたちはさまざまな種類の「心の底からの訴えを遠ざけてしまうコミュニケーション」を身につけて話したり行動したりするようになっている。その結果、自分自身も自分以外の人も傷つけている。
p53「第2章 思いやる気持ちを妨げるコミュニケーション」より
ひどく混乱している。
最近読んだ「NVC 人と人の関係にいのちを吹き込む法」の
内容が自分には衝撃だったから。
マーシャル・B・ローゼンバーグさんが生み出した
新しいコミュニケーションのかたち。
それが非暴力コミュニケーション
(Non-violent Communication=NVC)だ。
NVCを行うプロセスには4つの要素があるという。
①観察(自分の人生の質を左右する具体的な行動の「観察」)
②感情(観察したことについて抱いている「感情」)
③必要としていること(そうした感情を生み出している、価値、願望、「必要としていること」)
④要求(人生を豊かにするための具体的な行動の「要求」)
まだ半分ほど読んだところなんだけれど、
ページをめくるたびに驚きが止まらない。
わたしたちには生まれつき人を思いやる気持ちがそなわっているというのに、それをなかなか発揮できなくなるのはなぜか。研究するうちにわかってきたことがある。あるタイプの言葉とコミュニケーション方法は、人や自分に対して暴力的にはたらく一因となると気づいたのだ。わたしはそうしたコミュニケーション方法を、「心の底からの訴えを遠ざけてしまうコミュニケーション」と読んでいる。
p39-40「第2章 思いやる気持ちを妨げるコミュニケーション」より
心の底からの訴えを遠ざけてしまうコミュニケーションの根底には、何百年も前から影響を及ぼしている人間に対する考え方があるとわたしは思っている。人は内面に邪悪なものを抱えた不完全な存在であると強調し、本来の望ましくない性質を矯正するためには教育が必要であるという考え方だ。そうして教育された結果、わたしたちは自分の感情と自分が必要としていることを肯定できなくなる。そして大人になるよりずっと前に、自分の内面を無視することを学ぶ。
p52「第2章 思いやる気持ちを妨げるコミュニケーション」より
「心の底からの訴えを遠ざけてしまうコミュニケーション」とは
「間違っている」と道徳をふりかざして裁いたり、
比較して評価したり、
責任を回避する言葉を使うことと解説されている。
どれも自分が日常で何気なく
使っていたものばかりで
自分のこれまでのコミュニケーションのあり方を
振りかえらないではいられなかった。
✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎
自分のなかで、ずっと人と関係が築けないのが悩みだった。
人との会話のやりとりで
仲を深めるつもりが溝ができてしまったり、
思いや考えがちゃんと伝わらないことでイライラしたり。
なんでそうなってしまうのか分からなくて、
そんな状態がもう嫌々でたまらなくて。
そういうことがよく起きていたのは
「心の底からの訴えを遠ざけてしまうコミュニケーション」を
使っていたからなのかもなと。
NVC(非暴力コミュニケーション)を
もっと知りたい自分がいる。
〜END〜