ぶらやまだ

日々のなかに遊び心を。自分らしさ探求中。

Meeeラボで自己理解

先月から「Meeeラボ」という

オンラインコミュニティに参加してみたのでございます。

jibun-compass.com

#Meeeラボとは、「自己理解をアタリマエにして、自分の才能を活かせるようになる」ことを目的としたコミュニティです。Meeeラボに入れば、自分が持っている強みや才能に気づくことができ、普段の生活での活かし方を実践を通して知ることができます。

個人的にはここに共感するものが▼

理想の姿は、自分の内側にある。

産まれてから衣食住に困った経験がないミレニアル世代が求めるものは、車や家などのモノを所有することでもなければ、地位や名誉得ることでもありません。

我々は、
● 何かに情熱を持って取り組んでいる人
● やりたかったことを実現している人
● 人から必要とされ世の中の役に立っている人

に魅力を感じるのです。理想は自分の外側ではなく、内側に存在します。

 
うんうん、内側なんすよね〜
 
* * *
 
んで、参加したきっかけは、その内側=自分のことをよく知りたいから。
 
自分がなにが好きで、なにがやりたくて、なにに興味があるのか。
自分でもなんでそんなことも分からないんだろうって恥ずかしくも思う。
どうして分からないんだろう?
なんで自分のことなのに?
なぜ?なぜ?なぜ???
 
思うに、自分のことより他人のことに忙しいから。
自分の気持ちや感情のことより、
他人のニーズに応えるのが先っていう習慣が染み付いてしまってるのよね。
だから、いざ自分のことを知ろうと思っても自分が応答してくれないっつー 。。。
だったら、自分ひとりで先に進まないなら、
進みそうなところに行ってみるのがいいんじゃないのかな。
 
Meeeラボはストレングスファインダーという自己理解ツールを
共有しあえるところがいいと思ったんですよ。
それで相手の全てが分かるわけじゃないけれど、
ストレングスファインダーが「共通言語」として機能する場だということで
だから、個人的に安心感があったんすよね。
 
それと、オンラインコミュニティ、オンラインサロンにも興味があって、
地方に住んでいる身としてどのくらい利用価値があるのか気になった。
合わなかったら、辞めればいいしーってな気持ちで。
 
* * *
 
で、参加して1ヶ月経ってみての感想。
 
●よかったこと
・自己理解が深まった
自己理解に興味がある人たちの集まりだから、
関連する情報が毎日投稿される。
ひとりじゃアクセスできそうもなかった情報を知り得るのはありがたいっすね。
(ただ、どれを受け取るかはその人次第なところはあるけれど。)
ちょこちょこ勉強会もあるんで楽しく深く学べる。
 
・相談することが身近になった
コミュニティ内ではコーチングが当たり前に行われてて、
ストレングスファインダーをどう活かしたらいいか、
仕事のこと、人間関係のこと、などが誰でも相談できる。
ひとりで考えても分からないことは
誰かに相談することもできるんだっていう選択肢を持てるようになった。
アメリカとかだとマネジメント層の人たちは
コーチングを日常的に利用してるらしい。
どんどん人に話す、相談できるって精神的にも安心しますわ〜 
 
・オンラインでの会話が身近になった
コーチングもそうだし、コミュニティ内での勉強会も
zoomというオンラインツールで行ってる。
実はスカイプすら食わず嫌いで使ったことなかったんだけど、
zoom使ってみたらこりゃあ便利だわ〜。
もう距離をハンデとは思えないっすね。
そのくらい普通に会話できるんだもの。
 
●気になったところ
facebookの画面が見づらい
facebookの機能を使ってコミュニティのやりとりは行われているんだけど、
そのfacebookの表示される画面が少し見づらい。。。
 
スレッドをテーマごとに立てていくから、
それぞれ書き込みがないと下に埋もれていく。
めっちゃスクロールしないと見れないのよね。
 
これはfacebookの性質上変えられないところなんだろうなー。
 
* * *
 
結論、地方住まいでもオンラインコミュニティに参加する価値はあり!
だと個人的には思った。
他のオンラインコミュニティにも参加してみよっかなと思えるくらい。
地方に住んでる人こそオンラインコミュニティ、オンラインサロンに
入ってみると いいんじゃないのかな〜。

 

〜END〜

「怒り」は自分が満たされていないという叫びだ

怒りの核には、必要としているがいまだ満たされていないことがある。
p250 「第10章 怒りをじゅうぶんに表現する」より
NVC 人と人との関係にいのちを吹き込む法 新版

NVC 人と人との関係にいのちを吹き込む法 新版

 

 

以前書いた、衝撃を受けた非暴力コミュニケーション(NVC)。  

改めて『NVC  人と人との関係にいのちを吹き込む法』を読んで、
強烈に自分に突き刺さったのは「怒り」についての記述。

 人の言動は、自分の感情を「刺激」することはあっても「原因」になることはない。(中略)人の言動をどう受け止めるかを「選択」した結果や、そのとき必要としていることや期待していることが感情を引き起こすととらえるからだ。

p97 「第5章 自分の感情に責任をもつ」より

 人の言動は、わたしたちの感情を刺激することはあっても、感情の原因とはならない。人がとった行動が理由となって怒ることは、決してないのだ。
p246 「第10章 怒りをじゅうぶんに表現する」より
 今まで腹が立つことが多かった。
 
約束や時間を守らない人。
それでいて悪びれることもない人。
高圧的な態度で迫ってくる人。
それでいて、自分より立場が上の相手にはヘコヘコする人。
徹夜してがんばってる感出す人。
睡眠時間の短さをアピールしてくる人。
悲壮感漂わせる人。
自分の話ばかりして、こちらの話には耳を貸さない人。
逆ギレする人。
などなど、、、
 
そういう「バカ」な人たちの
言動ひとつひとつにムカついていた。
こいつらの一挙手一投足がおれをイライラさせやがる!
おれは被害者だ、悪いのはあいつらだ、って。
 

でも、NVCでは、

他人の言動が怒りの感情の原因になることは

決してないと言い切る。

それに驚かされた。

どういうわけだ?と何度も読み返す。

 

 判断する、批判する、評価する、解釈を加えるということはどれも、自分が必要としていることが満たされていないという遠回しの訴えだ。
p102 「第5章 自分の感情に責任をもつ」より 
怒りは、必要としていることと結びつきが損なわれた、心の底からの訴えを遠ざけてしまう考え方によって引き起こされる。
p249 「第10章 怒りをじゅうぶんに表現する」より
 つまり、怒りの反応は極めて表面的なもので、

本当のところは、自分が必要としていることが

満たされていないということだ。

 

僕は妙に納得してしまった。

しっくりと腑に落ちる感覚があった。

 

なぜかといえば、

自分の怒り、イライラを発生させているのは

「あいつ」がいるからだ、「あいつ」のせいだ。

と判断して、その相手に迫っても

いい結果になることがなかったからだ。

 

相手を屈服させてそのまま関係も断絶してしまうか、

反発して仲違いしてしまうか、

自分がその後ずっと嫌な気持ちを引きずってしまうか。

 

いずれもよかったとは思えなかった。

だから、相手のせいで怒りが芽生えることはない、

自分が必要としていることが満たされていないんだ

ってことに安堵感すら感じたのだ。

 

もう相手を責めなくていい、

相手を責めてしまった自分を責めなくていいんだと。

 

多くの人は、自分がほんとうに必要としていることを自覚するような考え方を身につけていない。必要としていることが満たされていないとき、相手の何がいけないのかを考えることに慣れてしまっている。
p103 「第5章 自分の感情に責任をもつ」より
自分が苦痛を感じるのは人のせいである、だから相手は罰を受けるに値すると自分を信じ込ませてしまっていることが、暴力の発生につながる。
p255 「第10章 怒りをじゅうぶんに表現する」より 

 「あいつ」のせいだと相手を責める行動は

慣れや学習によるところが大きいようだ。
 

であれば、学び直すことで、

人のせいにしない、自分を大切にするコミュニケーションを

身につけることは可能だろう。

僕のとっては希望だ。

 

    *    *    *    *    *

 

ちょうどNVCが学べる講座が紹介されてた。

僕は参加するよん。

【Online11/12-】共感的コミュニケーション基礎づくりコース(昼・夜)

  

〜END〜

NVCフェスで体験した「聖なる誓い」と「タイムトラベル」

9/15〜17の3日間行われていたNVCフェス。

その2日目に僕は参加していた。

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NVCフェス2018秋

 

そこで「聖なる誓い」と「タイムトラベル」という、

へんなワークをした。

  

「聖なる誓い」は子どもの頃に

自分に課した誓いのことだそうで。

それを解除するのに過去に遡って、

当時の自分に逢いに行くのに

「タイムトラベル」という手法を使うといった流れ。

 

NVCを学んでいても、

相手の話をちゃんと聞こうと思っても、

なぜかどうしても抵抗があるという場合に

取り組むものらしい。

 

   ✳︎   ✳︎   ✳︎   ✳︎

 

怒鳴る人や約束を破る人を見ると

ハラワタが煮えくり返って許せなくなる。

僕はその時間にこの課題に挑戦してみた。 

 

そういう感情になったのは、いつが最初か振り返る。

思い出せるのは中学になって、

先輩>後輩という序列が登場したとき。

年齢がひとつふたつしか違わないのに、

高圧的な態度をとる先輩に憤りを感じた。

 

講師の方からのいくつかのやりとりを経て、

「目上の人に対してなにか自分を大切にしてもらいたいことがあったのかな?」

と聞かれた。

 

そのとき脳裏に浮かんだのは、兄だった。

5歳年上の兄。

ちっとも優しくしてくれなかった。

僕はまるで子分やパシリのような扱い。

でも、そんな扱いを受けていながらも、

兄から認められたくてその役割を受け入れていた。

 

そんな関係も兄が中学にあがる頃から少なくなり、

会話も次第に減っていった。

そして、社会人になり、お互いに実家にほとんど帰ることもなく、

もう何年も顔を見ていない。

 

それなのに、兄のことを思った。

優しくしてくれなくて、さびしかった。

守ってくれる素敵なお兄ちゃんでいてほしかった。

でも酷い扱いで、僕は自分を犠牲にして

それに従うほかなかった。

 

   ✳︎   ✳︎   ✳︎   ✳︎

 

さらに、セッションが進むうちに、

兄も大変な立場に置かれていたんだなってことが分かってきた。

父親の役割を背負っていたこと。

 

父は仕事で忙しかったのか、幼少時代に父との思い出がない。

だからなのか、兄は兄でありながら、

父としての役割も引き受けてしまっていたのかもしれない。

 

そうなってしまったのは、

誰も悪いわけでもなく、

兄も父もがんばった結果なのだ。

 

父は父で家族のためにがんばった。

兄は兄で兄弟のためにがんばった。

そして、弟である僕は僕で、がんばった。

結果は、どうあれ、みんな一生懸命がんばったんだよな。

 

そう思うと、やり切れなかった。

 

みんながんばっていた。

その結果がこうなのだとしたら。

やり切れなかった。

 

がんばりが、悲劇的な事態を生む。

そういうこともあるんだなと思い知った。

 

   ✳︎   ✳︎   ✳︎   ✳︎

 

僕はがんばった結果、

兄の理不尽な要求にも応えねば。

自分を犠牲にしなきゃ価値がない。

意味がない。

 

そう誓うようになっていた。

その誓いは成長して大人になって必要なくなっても、

自分を縛り、自己犠牲を強いる。

まわりに気を遣い、空気を読み、顔色を伺う。

自分のことは後回しにして、ないがしろ。

 

それなのに、デカい声を上げ、約束を破るヤツがいる。

僕はこんなに気を遣ってるのに!

僕はやってあげてるのに!!

 

だから、僕は悲しくなり、

怒りに身体を震わせてしまうのだ。

 

   ✳︎   ✳︎   ✳︎   ✳︎

 

この悲劇を繰り返さないために

僕がこれからできることはなんだろう?

そう考えるようになった。

 

まずは、がんばってきた自分を

ねぎらうこと・いたわることなんじゃないかなと思う。

 

僕はがんばってきたんだな。

今までとてもがんばってきたんだな。

 

だから、ここいらで、よくがんばったね。

もうがんばらなくていいんだよ。

って言ってあげよう。

 

よくがんばったね。

充分だよ。

もうがんばらなくていいんだよ。

これからは自分のために生きようよ。

 

よくがんばったね。

 

nvc-japan.net

 

〜END〜

自分で自分を隠しているから生きづらい

僕はずっと僕自身を隠していた。

そして、隠していたことすら忘れていた。

だから、生きづらかったんだよな。

 

   ✳︎   ✳︎   ✳︎   ✳︎

 

内向型と外向型という傾向を

知ってからというもの、

内向型に近いであろう自分は

どう生きれば自分を満たせていけるのか

あれこれと考える毎日。

 

内向型に関する本を調べてみると

海外の方が書いたものが多いなか、

渡瀬謙さんという方の存在を知る。

pictworks.com

 

内向型の強みを活かして、

サイレントセールスという

しゃべらない営業術を提供している。

 

プロフィールを見ると、

以前はコピーライターとして、

広告の仕事もしていたそうだ。

 

そして、内向型について

誰でも相談にのってくれるという。

 

僕の仕事は広告のデザインなので、

少し親近感を覚え、

相談できるのならこの機会だと思い、

思い切ってダメもとで申し込んでみた。

 

するとまもなく、

快くお引き受けいただけるという趣旨の

メールが返ってきたではないですか!

うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ〜マジかぁぁぁ〜

 

自分から申込んでおいて、

いいの?本当にいいの?と

慌てふためくっていう 笑

 

    ✳︎   ✳︎   ✳︎   ✳︎

 

そして、当日。

僕が事前に相談したかったことは

内向型をどう仕事に活かしていけばいいか

ということだった。

 

けれど、結果的には

自分にとって思ってもみないところに着地することに。

それに、今でも驚いている。

 

●僕には表現したいことがある、けれど、それができていない

●表現したものに共感してもらいたい

●テーマは自分が今まで隠してきたこと=

内向的なのにそれを隠してきた自分

 

デザインの仕事は嫌いではない。

けれど、いまひとつ情熱を注げられるものがなかった。

だから、どこかで自信がない自分がいた。

独立してやっていくイメージも持てなかった。

 

絵やイラストにしてもそうで、

自分がこれを表現したいんだ!っていう題材が

ないままだった。

だから、人に見せるものじゃないと

どこかで諦めていた。

 

それが渡瀬さんと会話するなかで

え?僕って表現したいの?

そうか、テーマが欲しかったのか!

だったら描けそうだぞと。

 

渡瀬さんの言葉で一番響いたのは

内向型であることがつらいんじゃなくて、

内向型を隠していることがつらいんだ、ということ。

 

内向型といっても、人それぞれだと思う。

口下手、人見知り、あがり症、内気、敏感、繊細、ナイーブ、、、

 

僕は隠していた。

恥ずかしいから、みっともないから、

バレないように。

 

でも、それが自分である証であり、特長なんだよね。

他の人には替えられない

自分だけのオリジナリティというわけだ。

 

 

ずっと隠していたから、気づけなかったんだな。

自分の一番のオリジナリティに。

 

それって、自分にとってのテーマになるんじゃね?って思った。

他の人には手が出せない、自分だけがやれる題材。

一生追い続けられる、永遠ネタに溢れている。

 

    ✳︎   ✳︎   ✳︎   ✳︎

 

いや〜、とはいえ、

隠してきたものをすぐにオープンにしちゃおうっていっても

これまでの自分が邪魔をしちゃう。

だもんで、少しずつオープンに していければなと。

 

んで、内向的な自分を表現するにあたって、

どう伝えればいいのかなと考えてみるに、

ぷぷぷと笑えるのがいいなって。

そうしたほうがまわりも受け入れやすいんじゃないかと。

 

試しに描いてみたのがこちら。

どうかな〜〜〜?

 

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〜END〜

内向型と外向型

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ー「察する」ことができないと人間関係に響くー。
 
そんな場面を何度か経験して、
でも、それはあまり心地のいいものではなくて。
 
思うに、「察する」ことが行き過ぎて
「忖度」になっちゃうんじゃないかな。
 
自分のことを理解することと、
相手のことを理解すること。
ある程度始めから開示できればいいのに。
 
内向型と外向型というタイプの違いも
お互いを知る最初のきっかけに
なれたらいいんじゃないかな。 
 
 
   ✳︎   ✳︎   ✳︎   ✳︎
 
 
今の自分に必要なのは
「自己理解」なんじゃねーかな?と思ったのは
このwebサイトと出会ったのがきっかけ。
 
「Meee」という会社が運営していて、
Meeeラボという誰でも参加できる
コミュニティもあるみたい。
 
興味があって見てみると
「内向型プロデューサー」なる肩書きをもった人が。
 
「内向型」というワードは
うっすらどこかで見聞きした覚えがある程度。
ただ、なんとなく気になって自分はどうかな?と思って
内向型に関する記事を読んでみると、
これがまあなんと当てはまること、なんのって!
 
記事によれば、
3人にひとりは内向型らしい。
そんなに多いのにあまり知られていないのは
世の中が外向型中心につくられているためだという。
 
内向型であっても、
外向型のように振る舞うことを
社会全体が知ってか知らぬか
奨励してきたってことなのかな。。。
 
内向型には内向型ならでは特徴があるようで。
・ひとりが苦じゃない
・人が多いところに行ったあとは疲れる
・話すのは苦手、書くのは得意
・におい、音、天候に敏感
・じっくり考える
などなど。
 
今まで自分が働くうえで
悩んできたことと合致した。
 
そもそも向いていないことなのに、
上達するべき、克服しなきゃと駆り立てていた。
でも、結局できなくて。
できない自分を責めて、責めて、責めて、
自己嫌悪していた。
 
そもそもが無理ゲーだったら、
クリアできるわけねーじゃんか。
 
 
    ✳︎   ✳︎   ✳︎   ✳︎
 
 
これはかわいいイラストで分かりやすいッス。
この方も書いているように、
ハッキリと内向型と外向型
どちらか一方に別けられるものでもないらしい。
 
内向型にせよ外向型にせよ、
個人的にはその人の特徴を把握、理解して、活かした方が
無駄がないし、モチベーションも生産性も上がると思うな〜。
 
〜END〜

自分の感情をどうすればいいか分からなかった

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それまでにはなかった

自分のなかに渦巻く表現しにくい、なにか。

それも自分の感情なんだと、気づけなかった。

どう扱っていいか分からなかった。

 

だから、見ないようにした。

 

    ✳︎   ✳︎   ✳︎   ✳︎

 

中学にあがるとそこでは

僕にとって全く不可解なルールが待ち受けていた。

先輩>後輩の上下関係。

同じ学年内でのヒエラルキー

イジメ。

 

次第に学校に行くのが楽しくなくなっていった。

行かなければならないものに変わっていった。

義務感。

みんな行ってるから、行くしかない。

当時はそれ以外の選択肢が考えられなかった。

 

そういう状況では、

「苦しい」や「つらい」気持ちでいっぱいだったと思う。

今振り返ればそう思うけれど、

その時の僕は気づけなかった。

気づかなかったのか。

 

気持ちや感情をどうすればいいか分からなかった。

「つらい」気持ちがあったとして、

それをどう扱えばよかったのだろう?

大人になった今の自分でも悩むのに、

中学生の僕はなおのこと分からなかったと思うんだ。

 

それに加えて、

「苦しい」とか「つらい」みたいな気持ちを

抱くこと自体がいけないことのような空気があった。

弱い、情けない、男らしくない、ネガティブ、、、

それらはあってはいけない、と。

 

     ✳︎   ✳︎   ✳︎   ✳︎

 

中学生になって、

自分にとって苦痛になることがグンと増えた。

それは思ってもみなかった事態だった。

 

この事態のなかで、

自分のなかで急激に増えていった不快な気持ちを

僕はどうすればいいか分からなかった。

不快な気持ちを持つこと自体

いけないことのように感じていた。

それが自分の感情なのだと

認めることもできなかった。

 

だから、見ないようにした。

なかったことにした。

フタをした。

  

そうすることが

その時の僕ができる

精一杯の行動だった。

 

〜END〜

「心の底からの訴えを遠ざけてしまうコミュニケーション」が自分も相手も傷つけている

 人を思いやる気持ちとともに、与え、受け取ることによろこびを感じるのは、本来自然なことだ。しかし、わたしたちはさまざまな種類の「心の底からの訴えを遠ざけてしまうコミュニケーション」を身につけて話したり行動したりするようになっている。その結果、自分自身も自分以外の人も傷つけている。

p53「第2章 思いやる気持ちを妨げるコミュニケーション」より

NVC 人と人との関係にいのちを吹き込む法 新版

NVC 人と人との関係にいのちを吹き込む法 新版

 

 

 

ひどく混乱している。

最近読んだ「NVC 人と人の関係にいのちを吹き込む法」の

内容が自分には衝撃だったから。

 

マーシャル・B・ローゼンバーグさんが生み出した

新しいコミュニケーションのかたち。

それが非暴力コミュニケーション

(Non-violent Communication=NVC)だ。

 

NVCを行うプロセスには4つの要素があるという。

①観察(自分の人生の質を左右する具体的な行動の「観察」)

②感情(観察したことについて抱いている「感情」)

③必要としていること(そうした感情を生み出している、価値、願望、「必要としていること」)

④要求(人生を豊かにするための具体的な行動の「要求」)

 

まだ半分ほど読んだところなんだけれど、

ページをめくるたびに驚きが止まらない。

 

 わたしたちには生まれつき人を思いやる気持ちがそなわっているというのに、それをなかなか発揮できなくなるのはなぜか。研究するうちにわかってきたことがある。あるタイプの言葉とコミュニケーション方法は、人や自分に対して暴力的にはたらく一因となると気づいたのだ。わたしはそうしたコミュニケーション方法を、「心の底からの訴えを遠ざけてしまうコミュニケーション」と読んでいる。

p39-40「第2章 思いやる気持ちを妨げるコミュニケーション」より

 心の底からの訴えを遠ざけてしまうコミュニケーションの根底には、何百年も前から影響を及ぼしている人間に対する考え方があるとわたしは思っている。人は内面に邪悪なものを抱えた不完全な存在であると強調し、本来の望ましくない性質を矯正するためには教育が必要であるという考え方だ。そうして教育された結果、わたしたちは自分の感情と自分が必要としていることを肯定できなくなる。そして大人になるよりずっと前に、自分の内面を無視することを学ぶ。

p52「第2章 思いやる気持ちを妨げるコミュニケーション」より

「心の底からの訴えを遠ざけてしまうコミュニケーション」とは

「間違っている」と道徳をふりかざして裁いたり、

比較して評価したり、

責任を回避する言葉を使うことと解説されている。

 

どれも自分が日常で何気なく

使っていたものばかりで

自分のこれまでのコミュニケーションのあり方を

振りかえらないではいられなかった。

 

    ✳︎   ✳︎   ✳︎   ✳︎

 

自分のなかで、ずっと人と関係が築けないのが悩みだった。

 

人との会話のやりとりで

仲を深めるつもりが溝ができてしまったり、

思いや考えがちゃんと伝わらないことでイライラしたり。

 

なんでそうなってしまうのか分からなくて、

そんな状態がもう嫌々でたまらなくて。

 

そういうことがよく起きていたのは

「心の底からの訴えを遠ざけてしまうコミュニケーション」を

使っていたからなのかもなと。

 

NVC(非暴力コミュニケーション)を

もっと知りたい自分がいる。

 

〜END〜

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