ぶらやまだ

日々のなかに遊び心を。自分らしさ探求中。

寒いときに自販機におしるこが売ってるとマジ嬉しい件

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11月の東北はすでに冬だああ。
寒さにまだまだ慣れてないからガクブル感がパないッス。
身体が冷える、そんなとき。これがあるとテンションが上がる。
それが、おしるこ。
 
ふと温かいものでもと、自販機で飲み物を買おうとしたときにおしるこが売ってるとマジ嬉しい。嬉しすぎる。
なかなか売ってる自販機が少ないし、てか、そもそも自販機で飲み物を買うこと自体そんなにないんだよ。
そんななかで、たまたまこのおしるこ様に巡りあったときの嬉しさったら。わっほーい
 
ガラガラガシャーンと降りてきたおしるこ様を手に取り、熱々の缶の温度を感じながら、フタを開ける。
すると、甘い甘い香りが漂って、その場にたちまち至福の時が訪れる。
液状になった餡の汁と小豆の粒。
このコンビネーションにぼくの喉は、胃は、身体は嬉しい悲鳴を上げる。あぁ、しみわたる。
あずきよ、あんこよ、甘みよ、香りよ。偉大なり。
たった120円でこれほどのインパクトって、なかなかないなあ。
 
 
 
さて、この缶入りおしるこですが、飲む際に小豆が残ってしまってお困りのそこのあなたに朗報です。
飲み口のすぐ下をボコッと凹ませて飲むと小豆が残らずにスルスルと出てくるようですよ。
思いのほか凹ませるぐらいがいいみたい。
この解説動画もおもしろい。
これ粒入りのコーンスープにも使えるっすね。
 
以上!
 

ねえ「牛」飼ってる?〜ブッダとお百姓さんのおはなし

つい先日、なんでも、ブッダの有名なエピソードだっつーはなしを聞いたッス。

ブッダなんて手塚治虫のマンガを少しかじった程度で、よく知らなかったんだけれど、そのはなしが奥が深かったので、山田の超訳でご紹介。

 

 

あるところに、ボンビーなお百姓さんがいました。

全財産は3頭の牛と、2ヘクタールのごま畑。

それが、彼の幸せを支えておりました。

 

が、しかし!

ある年、ごま畑は害虫にメチャメチャに破壊されちまい、牛たちも逃げ出す事態が発生!!

お百姓さんはてーへんだー!つって、牛を探し求めている最中、森の中で弟子たちと静かに坐っているブッダに出会いました。

「おらの牛さ見かけなかったべか?」ブッダは見かけなかったと答えました。

するとお百姓さんは「ああ、おらの人生はもう終わりだっぺよー。おらにはなんも残ってねえもんでよお。だもんで、命を絶つしかねえっぺよ」と嘆きだしました。

哀れに思ったブッダは反対方向を指差し

「牛はあっちへ行ったと思いますよ」とお百姓さんを元気づけました。

 

去るお百姓さんの姿を見送り、弟子たちに語りました。

「失くす牛を持っていない私たちは、とてもラッキーです。牛を持っているから、苦しみは生じるのです」

~END~

 

 

いろんな解釈ができると思うけど、ぼくはこう思ったど。

 この「牛」って、生き物の牛にとどまらず、自分の中の価値観とか思想にも当てはまるよね。自分にとってなくてはならないものとして「牛=価値観、思想」を持つ。持つことでそれが自分の支えやよりどころになるんだと思う。けれど、持つってことは同時に失くす可能性もはらんでいるわけで。もしなにかのきっかけで失くす事態が起きてしまうと、お百姓さんのように「おらの人生もう終わりだっぺよー」と絶望してしまうことにもなるんだろうな。

 

で、このはなしを聞いて、ぼく自身の中にも自分でも知らないうちに飼い始めた「牛」がいるなあと思った。でも、それがどんな牛なのかハッキリと自覚してなくて。。。自分はどんな牛を飼っているんだろう。ちょっと観察してみよう。モー

 

以上!

よい仕事は「スケジュールを引く」ことから

素晴らしい仕事っていうのは、スケジュールを引いておく。
クソみたいな仕事はスケジュールという概念すらない。
 
 
つい最近、ある仕事に関わった際に事前にスケジュール表を受け取った。それが、とても丁寧な仕事がされていた。
 
締切りがいつまでで、それまでになにが必要で何日かかるか、一目みて分かるように記載されているはもちろんのこと。
自分以外に関わる担当者も明記されていて、それぞれの連絡先も一覧できた。この仕事にどれだけの人が参加し、成り立っているのか。それが見えたんですよね。
 
それぞれに別の分野・担当で、違う会社・組織ではあるけれど、ひとつの仕事に一緒に関わるという意味では同じチーム。自分の仕事の領域の前後にも関わっている人がいて、それがより見えたことでほどよい緊張感と責任感が湧いた。
 
そういうスケジュールが引いてある仕事=丁寧な仕事を前にすると、いつも以上にやってやろう!と思う。
 
 
反対に、締切りも決まってなくて、担当者も曖昧で、誰が関わっているのかも不明瞭。予定、進行管理、スケジュールという概念がすっぽりない。
そういう仕事はたいてい雑でクオリティも低く、なんのために作っているのか誰も分かっていないことが多々ある。あるいは「偉い人」の自己満足、自己保身のためにあるような仕組みになっていたり。関わると消耗、疲弊の連続だ。
 
スケジュールなんて当たり前のことだろ?と思う人もいるかもしれないけれど、その当たり前のことができない、あるいは概念すらないというケースが意外に多かったりするんですよね。。。
 
思うに、少しでもよりよく仕事をしたいと願う人はその願いを果たすためのひとつの手段としてスケジュールを引き、関わる人間に周知してもらうように行動する。その跡が引かれたスケジュール表からちゃんと見て取れる。
 
そういう意味では、スケジュール・進行管理の概念がない仕事って、グチャグチャ雑なしょーもない成果物が生まれるべくして生まれてるってことなのかな。必然というわけですなー。
 
 
スケジュール表って、たった1枚の紙切れ。1ページのPDF。
けれど、そういう部分に人の思いは確実に反映されていて、受け取る人間に影響を与えているんだなと思った。
 
以上!

映画『舟を編む』を観て感じた人の心の機微 怒りが混じり合ったうれしさ

喜怒哀楽の「喜」と「怒」。一見すると相半する感情。プラスとマイナス。水と油。混じり合うことなんて、ないものかと思っていた。でも、人ってそこをぽーんと飛び越えて「喜」と「怒」を同時に表現する生き物でもあるんだなあと。

 

 

三浦しをん原作『舟を編む』という映画を観ました。

舟を編む

舟を編む

 

そのなかのワンシーン。主人公、馬締光也(松田龍平)がひそかに想いを寄せるヒロイン(宮崎あおい)に思い切ってラブレターを渡す場面。

 

主人公は自分の想いの丈を精一杯綴るんだけれど、極度なコミュ障なせいか、時代劇に出てくるような筆書きのお便りをしたためてしまう。

渡されても、は?なにこれ?いつの時代???って感じで(笑)

 

案の定渡されたヒロインは困ってしまい、でも、なんとか読みたいと考えて職場の上司にその手紙の内容を解読してもらうようにお願いする。(←健気ですな)中身はラブレターなのに(笑)!!!

で、上司に読んでもらったら、それが真面目な恋文だときたもんだから、さあ大変!どんだけ赤っ恥をかいたことでしょう!

 

その後、返事を待っていた主人公のもとへ向かい、事の顛末を一気呵成に畳み掛ける。こんなの渡されても読めねーし!!上司に読んでもらったらラブレターだっつーしよ!!こういうのって自分以外の誰かに読まれたら恥ずいじゃん、ヘタこいたー!!(意訳)。静かにブチギレ(笑)

 

でも、ブチギレながらも、実はヒロインは前々から主人公の変わったところに好意があって、だから、これが恋文ってどうかしてるぜ~と怒りながらも、同時に自分宛てのラブレターでもそれが如何なく発揮されていたことに対して、うれしさもにじんでいたんですよね。

 

結果、ふたりはお付き合いし始め、夫婦になっていく様子が物語では描かれていました。

 

 

このシーンを観て、喜怒哀楽の「喜」と「怒」って一緒に表現されることもあるんだなあと。きっと自分やまわりの人たちもひとつに限らない混じりあった感情を表していることってあるんだろうけれど、なかなか気づかないもので。

一見すると相半する感情で、混じり合うことなんて、ないものかと思っていた。けれど、人って「喜」と「怒」を同時に表現する生き物でもあるんだなあと、なんだかそこがおもしろくて、おかしかった。

 

以上!

『江戸時代の仙台を歩くー仙台地図さんぽ』で仙台の地形を知る

1691~1692(元禄4~5)年に作られたとされる地図と現代の地図を比較して見れる『江戸時代の仙台を歩くー仙台地図さんぽ』

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この古地図が描かれたとされる、約330年前の元禄期というのは伊達政宗公から数えて四代目の伊達綱村公が仙台を治めていた時代。仙台城下は約6万人程度の人口を抱えるほど繁栄し、街並みも最大規模に拡充されていたようです。同時期の江戸の人口は推定30~35万、東北の地でありながらなかなかの賑わいがあったんだろうなと想像します。

 

『江戸時代の仙台を歩くー仙台地図さんぽ』は、以前記事にもした『100年前の仙台を歩くー仙台地図さんぽ』の第二弾にあたるもの。第一弾が100年前、第二弾が300年前となっていて、合わせて読むとちょっとしたタイムトリップが味わえちゃいます。

地図・歴史好き必見!仙台の100年前と今が見比べる地図本「100年前の仙台を歩くー仙台地図さんぽ」。 - ゆるゆる脱力系男子 山田の生き方ヒントブログ

 

この『江戸時代の仙台を歩くー仙台地図さんぽ』を読んでみて、一番心躍ったのは、古地図の描写がめちゃめちゃきれいだったこと。仙台城下の町割りが碁盤の目にスマートに直線で描かれているんですよね。今から300年前っすよ。これを作った人ってすげえ技術を持ってたんだろうな。

 

で、さらに注目したのが、きれいな町割りが描かれているなかで、一部崩れているところがあったこと。特に県庁・市役所から仙台駅界隈。

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これってどうしてなんだろうと思って解説を読むと、河岸段丘の段丘崖、つまり、崖、あるいは急な斜面。だから、町割りの基本形である碁盤の目を割り出すことができなかったという。

 

河岸段丘ってなに???そういえば、「ブラタモリ仙台編」でも仙台は河岸段丘だとかなんとか言ってたなあと思い出して。

調べてみると、河岸段丘というのは川が長い歳月をかけて作り出した地形だということ。

河岸段丘…広瀬川が創りだした時間の造形

広瀬川によって、(川に近いものから)下町段丘・中町段丘・上町段丘の3つの河岸段丘が形成されており、境には崖面が見られます。

中町段丘が直接広瀬川と接する場所もあり、大きな高低差が生まれ、雄大な景観が見られるなど、仙台ならではの地形がここにあります。

河岸段丘…広瀬川が創りだした時間の造形

広瀬川の個性を読み解く | せんだいセントラルパーク

 

仙台の街は下町段丘・中町段丘・上町段丘、この3つの河岸段丘の上に作られているんだな。ふむふむ。

 

仙台の河岸段丘がひと目で分かるこんな素晴らしい図を発見!これすごい分かりやすい!市役所・県庁あたりはちょうど段丘の変わり目になってる。それが地図の描写にも反映されてるんだな。

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仙台の町並みをつくる河岸段丘

 

他にも、河岸段丘の高低差を色分けしてMAPにしたものも。

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http://www.hirosegawa-net.com/report/img/map_chikei.pdf

 

仙台を流れる広瀬川。この川が作り出した地形をうまく利用して仙台の街が形成されているんだなあ。

地図って平面だけど、よく観察することで、仙台の地形を立体的に捉える手がかりがあるってことっすねー。

 

以上!

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このイラストレーターがすごい!絶妙なヌケ感がたまらない ニシワキタダシ

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お気に入りのイラストレーターのひとり、ニシワキタダシさん。

確か、書店で偶然手に取った『レトロ印刷の本』という昔懐かしの印刷方法を特集した本にニシワキさんのイラストが掲載されていて、その絵柄に一目惚れした記憶が。

この絶妙なヌケ感がたまらないんですよね。コミカルで、とぼけていて、愛くるしくて、それでいて、強烈なインパクトがある。巧みです!

レトロ印刷の本 わら半紙、蛍光インク、ミシン製本…かわいくてアジがある印刷の楽しみ

レトロ印刷の本 わら半紙、蛍光インク、ミシン製本…かわいくてアジがある印刷の楽しみ

 

 

個人的には、この『かんさい絵ことば辞典』がニシワキタダシ入門書としてオススメです。独特なニシワキワールドを余すところなく楽しめるかと〜

かんさい絵ことば辞典

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  • 作者: ニシワキタダシ,コラム: 早川卓馬
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http://www.smoca-n.com/file/main-Frameset.html

 

以上!

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『君の名は。』この物語にぼくらが強く惹かれる理由 記憶を忘れる悲しさと思い出す喜び

記憶はできるが忘れてしまうという理不尽な機能をぼくら人間は生まれながらに抱え込んでいる。『君の名は。』は、この記憶を忘れる悲しさと、そして、思い出す喜びを描いた作品だと感じた。このテーマは人間なら誰しもが無視できないだろう。

この物語にぼくらが強く惹かれる理由はそこにあるんだとぼくは思った。

 

人間の記憶を忘れる悲しさと思い出す喜び

小説 君の名は。 (角川文庫)

小説 君の名は。 (角川文庫)

 

 『君の名は。』の小説版を読み進めている。映画版はぼくにとってはとても分かりづらい構成だった。「どうして?」と思う点がけっこうあって、それが最後まで見ても自分の中で回収されなかった。

新海誠監督最新作『君の名は。』が思ってたよりも楽しめなかった理由を書き出してみる - ゆるゆる脱力系男子 山田の生き方ヒントブログ

 

それがどうにも解せなかったので、小説版にも手を出してみたというわけで。映像では追い切れなかったところも、本だとまた戻って読めるところがうれしい。

 

読み進めていくうちに、現時点で分かってきたのはこれは男女の恋物語ではなかったということ。いや、もちろんラブストーリーではある。が、男と女がスキダーとかアイシテルーとかホレターだのは分かりやすい側面であって、その背後には人間の記憶を忘れる悲しさと思い出す喜びが描かれているなとぼくは感じた。

 

大事なことすら忘れてしまう

主人公の高校生・瀧はいろんなことを忘れてしまっている。この子の脳機能は大丈夫か?と思うほどに、大事なことすら抜け落ちていて「それめっちゃ大事なことなんだからちゃんと覚えておけよ!」と、こちらが若干イラっとしてしまう。けれど、彼のようにぼくらもいろんなことをかんたんにころっと忘れてしまうよなあと気づかされる。

 

ぼくもこの作品を見るまで忘れていて、思い出したのが数学者森田真生さんの記事。コンピュータの礎を築いたといわれる数学者アラン・チューリングに触れたもの。そのなかで、『君の名は。』の物語と共通する部分があったよなと記憶の底から蘇ってきたのだ。

 生まれたばかりの幼子は、母乳を自分の内から来るものとして認知するという。母も子も同じひとつのもので、内と外の区別がない。ところがあるときこどもは、「そと」ということに覚醒する。このとき、それまで同じひとつのものだった母が他者となり、環境となる。そうして同じひとつのものから「片方」を失った片割れとして、「私」が誕生する。「片方」を失うことで、私は私になる。これが「私」に運命づけられた孤独の起源である。

 

 生きることは、失われた片方を探すことである。生の側にとどまって、片方を失ったまま、同じ一つの「もう片方」と出会おうとすることである。

 

 人は言葉を使って、同じひとつのものに、二つの名前をつけようとする。

 「物質と生命」と言ったり「生と死」と言ったり「善と悪」と言ったりして、同じひとつのものに、違う二つの名前をつけたがる。そうしていつの間にか、違う二つの名前の指し示していたものが、同じひとつのものであったことを忘れてしまう。

 いつしか失われた片方にも、私と違う名前が与えられ、私とは他なるものとして切り離される。切り離されたうえで、それを分析したり解析したり制御したりしようとする。そうして、自然について思考する。しかし、このときの自然は、もはや僕らと同じひとつの自然ではない。

 失われた片方と同じひとつのものとして出会うこと。

 

 それはいかにして可能だろうか。

森田真生公式ウェブサイト - Choreograph Life-

 

この物語にぼくらが強く惹かれる理由

人は自分にとって大切なこと・大事なことも忘れてしまう。脳のつくりがそうなってしまっているんだからしょうがない。とはいえ、記憶はできるが忘れてしまうこともあるというこの設計。よくよく考えて見ると、あまりにも不完全で曖昧で残酷な機能だよなと。そのためか、大切なこと・大事なことは忘れておきながら、そのくせどうでもいいことは覚えていて、そのどうでもいいことに忙殺されっぱなしな人のほうが圧倒的なんじゃないかな。

 

記憶はできるが忘れてしまうという理不尽な機能をぼくら人間は生まれながらに抱え込んでいる。『君の名は。』は、この記憶を忘れる悲しさと、そして、思い出す喜びを描いた作品だと感じた。このテーマは人間なら誰しもが無視できないだろう。

この物語にぼくらが強く惹かれる理由はそこにあるんだとぼくは思った。

 

※個人の感想です

以上!

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